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マルコ16:1-8「失敗続きの歩みでも」

  不思議なエンディング? 3 年以上読み進めてきたマルコの福音書も、いよいよ最後の章に入りました。予定では、今日含めてあと 2 回でこの章を読み終える予定です。私自身、説教者としては初めて一つの書を丸々説教し終えることになりますので、感慨深い思いでいます。 ただ、このマルコの福音書の最後というのは実は大きな問題を孕んでいる箇所でもあります。パッと見てお気づきになられている方も多いと思いますが、章の後半部分を見ると、 9 節以降は少し間を空けて長い括弧の中に入れられています。またその手前にも 5 行ほど括弧の中に入れられている段落があります。詳しいことはこの箇所を扱うマルコの福音書の次回の説教でお話しできたらと思いますが、簡単に言えば、この括弧に入れられている箇所はほぼ間違いなくオリジナルのマルコの福音書には含まれていなかったと考えられています。印刷技術の発明は 15 世紀ですから、それより前の聖書は基本的に人の手で書き写されることによって代々受け継がれてきました。そのプロセスのどこかで、 2 世紀前半という説が有力なようですが、この括弧の箇所が書き加えられた可能性が非常に高いということです。ですから新改訳聖書ではこの箇所を括弧の中に入れて区別しているわけです。 ではなぜそんなことが起こったのか。その理由は 8 節の内容にあります。 8 節「 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである 」。現状判明しているマルコの福音書の最後はこの 8 節で終わります。どうでしょうか。「こんな終わり方でいいのか」と思われる方も多いのではないでしょうか。昔の人々もそう思ったわけです。そこで、当時すでに存在していたマタイの福音書やルカの福音書などを参考にしながら、最後の部分を書き加えていったのではないかと考えられています。 私たちからすると、聖書に書き加えるというのはとんでもない暴挙であるように感じます。けれどももしかしたらそこには理由があったのかもしれません。実際、学者の中には、オリジナルのマルコの福音書には 8 節以降の続きがあったはずだという意見もあります。マルコの中には「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」( 14:28 )というイエスさまの約束があり...

マルコ15:40-47「葬られたキリスト」

証人としての女性たち 今日の箇所でまず目に留まるのは女性たちの存在です。 40-41 節「 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上ってきた女たちがたくさんいた 」。マルコの福音書の中で、イエスさまに付き従う女性たちの一団の存在が明かされるのはここが初めてです。彼女たちは「弟子」とまでは言われていませんが、「イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった」とありますから、ガリラヤ時代からずっとイエスさまと行動をともにし、陰ながらイエスさまを支え続けていたのでした。 そんな彼女たちは十字架を「遠くから見ていた」とあります。愛するイエスさまが十字架の上で孤独に息絶えるのを遠くから見守ることしかできなかった。自分たちの無力さを感じていたことでしょう。けれども、それでも彼女たちはその様子をしっかりと見ていました。目も当てられないほどの悲惨なイエスさまのお姿。しかしそれでも遠くから「見ていた」。 ここには、男性の弟子たちとの対比が描かれています。当時は今以上に男性中心の社会です。イエスさまの十二弟子もみな男性でした。彼らがいつも前に出ていた。しかしいざイエスさまが十字架にかかる時、彼らはどこにいたか。みなイエスさまを見捨てて逃げていました。イエスさまが十字架の上で息絶える時、そこには誰もいなかった。一方、普段は陰に隠れて、マルコの福音書の中でも一切言及されることのなかった女性たちは、最後までイエスさまに従おうとした。 先ほど「見ていた」ということばを少し強調して言いましたが、このことばは 47 節にももう一度出てきます。「 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた 」。この「よく見ていた」は 40 節の「見ていた」と同じことばで、単に「見る」という以上に、「注意深く観察する」という意味をもったことばが使われています。これは何を意味しているか。彼女たちはイエスさまの死と葬りの「目撃者、証人」となったということです。いつも中心にいた十二弟子ではなく、女性たちこそがイエスさまの死と葬り、そしてこの後 16 章に出てくる復活の第一の証人となった! ...

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」

  序 「 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 」、「 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか 」。マルコの福音書に記されたイエスさまの最後のことばです。衝撃的な最後です。他の福音書を見ると、もっと穏やかなイエスさまのことばが記されています。ルカの福音書では「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」。ヨハネの福音書では「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」、「わたしは渇く」、そして「完了した」。これぞイエスさまの最後のことばにふさわしいと思えるようなことばが記されています。それに比べてマルコの福音書はどうか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。「イエスさまのこんな悲痛な叫びなんて聞きたくない!」「こんなイエスさまのお姿なんて見たくない!」そのように感じる方もおられるのではないでしょうか。一体なぜイエスさまはこんな悲痛な叫び声をあげたのか。なぜマルコの福音書は十字架上のイエスさまのことばとして、この衝撃的なことばだけを記したのか。なぜルカやヨハネのようにもっと穏やかなイエスさまのお姿を残さなかったのか。   神なき世界に来られた神の子 「 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 」。これは旧約聖書の詩篇 22 篇 1 節のことばです。ともに開きましょう。詩篇 22 篇 1 節(旧 952 )「 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか 」。この箇所を元のヘブル語で読むと「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ」となります。マルコの福音書のイエスさまのことばと少し違うことに気づかれたでしょうか。実はイエスさまが口にされたのは、先ほどお読みしたヘブル語の原文を、当時民衆の間で一般的に話されていたアラム語という言語にしたものでした。イエスさまは単に十字架の上でこの詩篇 22 篇のことばを「引用」したのではなく、いつも話しているアラム語を用いて、ご自身の奥底にあるたましいの声を、この詩篇のことばにのせて叫ばれたのでした。 この詩篇 22 篇、よく読んでいくと、十字架の出来事に重なる描写がたくさん出てきます。 6-8 節「 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的...

マルコ15:16-32 (II) 「ともに十字架を負う」

序 先週はこの箇所から、ここに神の国の王としてのキリストのお姿が現されていること、そのキリストが王として治めておられる神の国に今私たちは生かされていることを学びました。その中で、マルコの福音書 10 章 45 節「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」という箇所もともに味わいました。 これまでも何度か申し上げて来ましたが、マルコの福音書は全体が十字架に向かっていくように構成されています。十字架の出来事をクライマックス、山の頂上として、あらゆる出来事がそこに向かっていくということです。ですから今日の十字架の箇所は単体でももちろん十分味わい深い箇所ですけれども、福音書でこれまで何が語られてきたかということを踏まえて、マルコ全体の文脈の中で読んでいくと、さらに深く十字架の出来事を味わうことができるようになります。その観点から、今日は二つのことに目を留めていきたいと思います。一つ目はイエスさまの両脇で十字架につけられた二人の強盗について、そして二つ目はイエスさまの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンについてです。   二人の強盗 まずは二人の強盗についてです。 27 節「 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた 」。ここで「強盗」と訳されていることばは「革命家」とも訳すことのできることばです。十字架というのは通常ローマ帝国への反逆者に科された刑でしたので、おそらくこの二人もローマ帝国に対する革命を企てていた過激派グループのメンバーだったと考えられます。ローマ兵からしたら、せっかく「ユダヤ人の王」を自称するイエスという男を十字架にかけるなら、その両脇で革命家二人も一緒に処分してしまおうという魂胆だったのかもしれません。 いずれにせよ、ここでマルコは「二人の強盗をイエスの両脇で十字架につけた」と書けばいいものを、わざわざ「一人は右に、一人は左に」という書き方をしています。なぜマルコはこんな書き方をしたのか。そこで思い起こされるのは、マルコ 10 章での出来事です。ともに開きましょう。マルコの福音書 10 章 35-40 節(新 89 )。「 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちが願うことをかなえていただ...

マルコ15:16-32 (I) 「王の姿」

  序 いよいよ十字架の場面、マルコの福音書のクライマックスがやってきました。先週の週報の予告では 15 章 16-20 節のみとしていましたが、準備をする中で、 32 節までを含めて一度に味わいたいと思いまして、今日は少し長い箇所を読んでいただきました。ただとても一度で語り切れる箇所はありませんので、今日と来週の 2 回に分けて、それぞれ違う角度からみことばに聴いていきたいと思います。   嘲られる王 今日の箇所では、ある一つの主題が一貫して描かれています。それは何か。王としてのイエスさまです。先週読んだ箇所でも、「あなたはユダヤ人の王なのか」とイエスさまに問うピラトの姿がありましたが、今日の箇所ではその主題がいよいよ鮮明になります。まずは 17 節、「 紫の衣を着せ 」。「紫」は古代から王家を象徴する色として用いられてきました。簡単に言えば、紫の衣というのは王、あるいは皇帝が着る服だったわけです。また続けて「 茨の冠を編んでかぶらせ、それから、『ユダヤ人の王様、万歳』と叫んで敬礼し始めた 」。 19 節では「 ひざまずいて拝んだ 」。 26 節を見ると、おそらく十字架の上につけられたであろうイエスさまの罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあったとあります。そして最後、 32 節では、祭司長たちと律法学者たちまでもがイエスさまのことを「 イスラエルの王 」と呼んでいます。一貫して王としてのイエスさまという主題が続いています。 しかし読めば明らかなように、そこにあるのは王に対する尊敬ではなく、その真逆、嘲りです。悪ふざけとも言えるでしょう。ローマ兵の立場からすれば、普段なかなか言うことを聞かずに抵抗ばかりしてくるユダヤ人に対して日頃からイライラしていたのかもしれません。そこに、「ユダヤ人の王」として訴えられ、十字架刑が決まった男がやって来た。日頃の鬱憤を晴らす絶好の機会です。わざわざ紫の衣を持ってきて、茨の冠を編むほどの手間をかけて、ナザレのイエスという男で遊び始める。やりたい放題です。 31, 32 節の祭司長たち、律法学者たちもそれに便乗して、皮肉たっぷりのことばを浴びせかけます。目を覆いたくなるような悲惨な光景です。   仕える王 その中で、イエスさまはどのように振る舞われたか。沈黙です。今日の箇所にイエスさまご自身のことばは一言も...

マルコ15:1-15「理不尽な救い」(使徒信条No.5)

  序 今日は 7 月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです 」(ローマ人への手紙 10 章 9-10 節)。この聖句から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条に関連する聖書箇所から順番にみことばに聴いています。 今日はその 5 回目です。前回は「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」の部分を扱いましたので、今回はその次、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」の部分を扱います。そこで開いているのがマルコの福音書 15 章 1-15 節ですが、実はこの箇所、普段のマルコの連続講解説教のちょうど続きでもあります。特に計画してはいたわけではありません。一石二鳥というのは少し違うかもしれませんが、これも神さまの不思議な御業と思い、ともにみことばに聴いていきたいと思います。   かわいそうなピラト? 「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」。考えてみると、このピラトは大変不思議な存在です。使徒信条ではイエスさまを除いて、個人名は二つしか出てきません。「おとめマリア」と「ポンテオ・ピラト」です。マリアは分かります。イエスさまを産んだ重要人物です。しかしピラトはどうか。彼は他の箇所では「総督」と呼ばれることもありますが、言ってしまえばローマ帝国の一官僚です。福音書の最後の方に出てくるだけ。それなのに、使徒信条の中で大々的に取り上げられています。しかも、いい取り上げられた方ならまだしも、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しめられ」、最悪な取り上げられ方です。神の子キリストを苦しめた罪人の代表として 2000 年間名前を呼ばれ続けている。けれども実際に今日の箇所を読んでみると、ピラト自身はイエスさまに少し同情的だったことが分かります。もちろん立派な人物だったとは言えませんが、少なくとも、祭司長たちや長老たちや律法学者たちほどには悪意にまみれていません。まだ物事を冷静に捉えることができている。それなのに使徒信条は、「祭司長たち、長老たち、律法学者...

マルコ14:66-72「彼は泣き崩れた」

  イエスとペテロの対比 ついにペテロの裏切りの場面に来ました。何度読んでも私たちの心を揺さぶる、大変印象的な場面です。この場面を読み解いていくに当たってまず私たちが注目したいのは、福音書の著者であるマルコがこの場面をどのように配置しているかということです。文脈に注目するということですね。話の舞台がオリーブ山から大祭司の家に移るのは 14 章 53 節です。「 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た 」。ここからイエスの裁判の様子が語られるのかと思いきや、続く 54 節ではペテロが登場します。「 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入ってきた。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた 」。けれども次の 55 節からは再びイエスの裁判に場面が移り、それが 65 節まで続き、ペテロの物語はその後、 66 節から章の終わりの 72 節まで続くことになります。イエスさまの物語とペテロの物語が重なり合うようにして記されている。なぜマルコはこのような描き方をしたのか。イエスさまとペテロの姿があまりにも対照的だからです。人々が自分に不利な証言をしても、ひたすら黙って耐え忍び、「わたしが、それです」、言うべきことははっきりと言い、何が起こっても揺るがない姿を示したイエスさま。それに対しペテロはどうだったか。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」、これは紛れもない事実です。しかしその事実に対し、「何を言っているのか分からない。理解できない」、即座に否定するペテロ。慌てふためいている姿が目に浮かびます。二度目も同じです。饒舌に苦し紛れの言い訳を並べたのでしょう。するとことばの訛りからガリラヤ人であることがばれ、「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから」と指摘されると、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」、嘘ならのろわれてもいいと誓い始めたペテロ。これがイエスさまの一番弟子の姿です。揺らぐことなく最後まで神のみこころを貫いたイエスと、いとも簡単に揺らぎ、神のみこころよりも自らの身の安全を優先したペテロ。対照的な二人の姿がここにあります。   キリスト者のジレンマ けれども見方によっては、イエスさまの後をついて大祭司の家に行っただけペテロは他の弟子...

マルコ14:53-65「さばきの前で」

  正義はどこへ 舞台はサンヘドリンと呼ばれる最高法院、今でいう最高裁判所です。祭司長、長老、律法学者、当時の権力者たちが勢揃いし、イエスを裁判にかけました。しかし、そこにもはや正義はありませんでした。 55-59 節「 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼の不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。『「わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる」とこの人が言うのを、私たちは聞きました。』しかし、この点でも、証言は一致しなかった。 」 本来であれば公正と正義を追い求めるはずの裁判がなぜこうなってしまったのか。始まりは正義感だったはずです。「ナザレのイエスという男が大きな影響力をもち始めているらしい。しかも奴は私たちが先祖代々大事にしている教えを否定し、あの神殿のことも批判して、自らがキリストであると名乗っているらしい。そんな奴を放っておいては民衆が皆惑わされてしまう。神からこの国を託されている者として、あの偽預言者を、偽メシアを排除しなければいけない!」祭司長、長老、律法学者たちは、自分たちこそが正義なのだと確信していました。自分たちこそが神さまの側にいる。 しかし、正義感というものは時に人を暴走させます。どんな手段を使ってでも正義を達成しなければいけない。多少の不正くらい問題ないだろう。自分たちこそが正しいんだから、誰も文句は言えないはず。そのような行き過ぎた正義感から、彼らは偽証、偽りの証言を繰り返しました。「偽りの証言をしてはならない」。彼らが何よりも大切にしていた十戒を破ってでも、達成しなければいけない正義があった。恐ろしいほどの正義感。純粋な悪意よりも厄介かもしれません。 今の日本の社会にも私は同じものを見ます。著名人が何か問題を起こすと、インターネットを通じて人々が一斉に寄ってたかり、罵詈雑言を浴びせかける。ネットリンチと言われます。あるいは SNS が発達した今、一般人でも何か炎上騒ぎを起こすと、住所、電話番号、学校、職場があっという間に特定され、迷惑行為が後をたたなくなる、そのような話を頻繁に耳にします。コロナ禍では、自粛...

マルコ14:43-52「恵みを語り継ぐ」

  勝ち誇る人々 いよいよイエスさまが捕まる場面です。イエスさまと弟子たちがオリーブ山のゲツセマネにいたところ、ユダが武装した群衆を引き連れてやって来ました。 44-46 節「 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、『私が口づけするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ』と言っておいた。ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、『先生』と言って口づけした。人々はイエスを手にかけて捕らえた 」。口づけというのは当時の習慣で、弟子が先生(ラビ)に対して尊敬をもってする一般的な挨拶でした。しかしユダはそれを裏切りの開始の合図として用いた。悲劇的なことです。 そしてユダと群衆たちはイエスを捕えることに成功しました。予想以上にうまくいったはずです。 47 節には、「 そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした 」とあります。ヨハネの福音書を見ると、これをしたのはペテロだったということが明かされていますが、いずれにせよ、抵抗と言える抵抗はそれだけでした。当のイエスは全く抵抗しませんし、弟子たちもそれ以上抵抗することなく、あっさりとイエスを見捨てて逃げていってしまった。こんなにあっさりと事が運ぶのか。こんな武装してくる必要なかったじゃないか。作戦は予想を遥かに超える大成功。これでお偉いさんたちに気に入ってもらえる。ご褒美がもらえる。彼らは勝ち誇っていたことでしょう。   神の国の視点 しかし、その場の主導権を握っていたのは実はユダと群衆ではありませんでした。 48-49 節「 イエスは彼らに向かって言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。』 」「しかし、こうなったのは聖書が成就するためです」。イエスさまは、この出来事の背後にある神さまの救いの計画を見ておられました。そもそも、イエスさまは抵抗しようと思えばできたはずです。弟子たちはイスラエルの国を再び立ち上がらせる軍事的な救い主を求めていましたから、イエスさまがここで「戦え!」と命じたら、弟子たちは懸命に戦ったと思います。そもそも、エルサレムに来なければイエ...

マルコ14:32-42「弱さから祈りへ」

  弱々しいキリストの姿 先週は、イエスさまによるつまずきの予告に対して、「自分たちは決してそんなことをしない!」、自分たちの弱さを決して認めようとしなかった弟子たちの姿を見ました。ただ続く今日の箇所では、そんな弟子たちと対照的なイエス・キリストの姿が描かれています。 33 節の後半から 34 節。「 イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』 」弟子たちはこんなイエスさまの姿を見るのは初めてだったでしょう。 33 節前半には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの 3 人だけが一緒に連れて行かれたとありますが、同じ 3 人組は以前にも出てきました。マルコの福音書 9 章に記されている、山の上でイエスさまの姿が変わったという出来事です。イエスさまが目の前で白く輝く衣をまとって、エリヤとモーセが現れて、雲が周りを覆い、「これはわたしの愛する子」という声が天から聞こえてきた。「これぞ神の子の姿だ!」と言わんばかりの出来事でした。ただし今回はどうか。あの時のイエスさまとは比べられないほど弱り果てた神の子の姿があります。ある翻訳は 33 節の後半から 34 節をこのように訳しています。「(イエスは)(急に)おびえ出し、おののきながら彼ら(弟子たち)に言われる、「『心がめいって、』『死にたいぐらいだ。』ここをはなれずに、目を覚ましていてくれ」。無教会の塚本虎二という人による翻訳ですが、これは決して誇張ではありません。十分ありえる翻訳です。おびえ出し、おののきながら、「心がめいって死にたいぐらいだ」、弟子たちに言われた。「イエスさまは一体どうしちゃったんだ」。弟子たちからしたらショックだったはずです。 また 38 節にはこうあります。「 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。 」これは「目を覚ましていなさい」と言われたにもかかわらず眠りこけてしまった弟子たちに対するイエスさまのことばです。「霊は燃えていても肉は弱い」、あれだけイエスさまについていくと豪語していたのに、早速眠ってしまっているではないか。リアルな人間の姿があります。 しかし、今回この箇所について調べている中で、興味深い解説に出会いました。その解説によれば、このことばは弟子たちだけではなく、イエスさまご...

マルコ14:27-31「羊飼いイエス」

序 先週の箇所はいわゆる「最後の晩餐」、新しい過越の食事についてでした。イエス・キリストの十字架の恵みがギュッと凝縮された、非常に味わい深い箇所でした。けれども今日の箇所は一転、再び暗い雰囲気に包まれます。 27 節「 イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはみな、つまずきます。』 」また弟子たちの裏切りの話か、そう思われる方もいるかもしれません。先月、私たちはこの前にあるユダの裏切りを予告する箇所を読みました。またイースターの時には、ペテロの裏切りとそこからの回復について、ヨハネの福音書のみことばに聴きました。実際、新約聖書には福音書が四つ残されていますが、弟子たちの裏切りの場面、そしてペテロがイエスさまを三度知らないという場面はすべての福音書に共通して記録されています。これは何を意味しているか。イエス・キリストの十字架と復活を語るに当たって、弟子たちの裏切りは決して見逃すことのできない、ある意味重要な出来事であったということです。私たちはこの弟子たちの姿から教えられるべきことが、聴くべき神のことばがたくさんある。ここに私たちの姿がある!そのような視点をもって今日の箇所に向かっていきたいと思います。   つまずきと回復の予告 「 あなたがたはみな、つまずきます 」。この前の食事の場面で、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」というイエスさまのことばを聞いて、弟子たちは「まさか自分ではないだろう」と思っていたはずです。しかし食事を終え、オリーブ山に向かう途中で、「実は一人だけではない。あなたがたはみなつまずく」と言われたイエスさま。そしてその後、こう続けました。「 『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。 」二重鉤括弧の部分、これは旧約聖書のゼカリヤ書からの引用です。ぜひ後ほど脚注から元の箇所を確認してみてください。ここで言う「わたし」は神さまのことです。羊飼いを打つ、このイエスさまの十字架の出来事は、神さまによってなされること。すると、イエスさまに従っていた羊たち、弟子たちは散り散りになっていく。旧約聖書ですでに語られていたことが、これから実現しようとしている。 しかしイエスさまのことばはそこで終わりませんでした。イエスさまはこう続けます。 28 節「 しかし、わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きま...

マルコ14:22-26「味わい、見つめる」

  序 今日は聖餐礼拝です。 3 月までは三浦先生が来られる第四主日が基本的に聖餐礼拝でしたが、来月からはそれ以前の形に戻し、基本的に第一主日に聖餐礼拝を行います。ただ 4 月も第一主日にすると、 3 月の第四主日から二週連続の聖餐になるということで、少し間を置くために、今月は第三主日の今日を聖餐礼拝としています。そして図らずも、今日の聖書の箇所は聖餐の最も重要な原型である、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。私自身、不思議な導きを感じています。 洗礼と聖餐、この二つは一般的に聖なる礼典と書いて「聖礼典」と呼ばれます。キリスト教会が 2000 年間ずっと大切に受け継いできている儀式です。日本語で「儀式」というとどうしても形式的なイメージが先行してしまいますが、洗礼と聖餐、この二つの聖礼典にはイエス・キリストが私たちにもたらしてくださった福音、恵みのエッセンスが凝縮されています。教会に欠かすことのできない大切な儀式です。聖礼典についてまたは追々お話しできたらと思いますが、今日はその中でも「聖餐」に表されている恵みについて、聖書のみことばに聴いていきましょう。   新しい過越 22 節冒頭「 さて、一同が食事をしているとき 」 。これは何の食事でしょうか。この前の文脈を見ると、この食事は単なる食事ではなく、特別な食事であったことが強調されています。同じページの上の段、 12 節「 種なしパンの祭りの最初の日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。『過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。』 」今日の箇所でもたれているのは「過越の食事」という特別な食事です。ユダヤ人は今でもこの過越の食事を毎年守っていますけれども、この食事は旧約聖書に記されている出エジプトの出来事を記念する食事です。出エジプトというのは、旧約聖書における救いの最大の出来事です。エジプトの地で奴隷として苦しめられていた民を、神さまご自身が力強い御手をもって救い出してくださった!この神さまの救いを毎年特別におぼえ、記念するために過越の食事をもちなさいということが旧約聖書の出エジプト記で命じられています。ですから、イエスさまの時代もすべてのユダヤ人がこの食事を守っていました。今日の箇所に描かれている食事自体は、どの家庭でも行われていたはずです。ただ、一...

マルコ14:10-21「いのちの引き渡し」

  序 今日の箇所は、いわゆる最後の晩餐の直前の場面を描いています。ここで一際目を引くのは、イスカリオテのユダの裏切りの企てです。 14 章の冒頭には祭司長たちと律法学者たちはイエスを殺すための良い方法を探していたとありましたけれども、彼らは今日のところで最高の協力者を得ました。時期はちょうど過越の祭りというユダヤで一番大事なお祭りの真っ最中でしたから、民衆から慕われている人気者のイエスを大勢の人がいるところで捕らえるわけにはいきません。そこで、イエスの一番近くにいる弟子をスパイとして送り込んで、イエスが人目につかないところにいくタイミングを伺い、そこでイエスを捕えるという方法をとることにしました。そのスパイの役を買って出たのがイスカリオテのユダです。ユダがなぜイエスさまを裏切ることになったのか、マルコの福音書はその理由を記していません。何らかの理由でイエスさまに失望していたのかもしれませんし、お金に目が眩んでいたのかもしれません。詳しいことは何も分かりませんけれども、ユダは神の子イエス・キリストを裏切るという大きな罪を犯してしまった。それは否定しようのない事実です。   大罪人ユダ? このユダは十二弟子の中でも一際目立つ存在ですので、ユダにまつわる物語は歴史の中で多く生み出されてきました。その中で最も有名なものの中に、イタリア文学最大の詩人と言われるダンテ・アルギエーリという人が書いた「神曲」という作品があります。この作品は「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」という三つのパートからなっていまして、ダンテ自身が主人公として、地獄、煉獄、天国を順番に旅していくという話です。その中でユダはどこに出てくるかと言いますと、やはり地獄篇です。ダンテが描く地獄は九つの層に分かれていまして、罪が軽い人から順番に一層目、二層目と降っていくのですが、ユダはどこにいるのかと言いますと、一番下の九層目です。そこにはルシファーと呼ばれるサタンもいて、そのルシファーがイエスを裏切ったユダと、カエサルを裏切ったブルータスとカッシウス、この 3 人を口で噛み締めしているという様子が描かれています。あらゆる罪の中で裏切りが一番重い罪だという理解です。ユダはそこで、歴史上最も重い罪を犯した人物の一人とされている。もちろんこの作品はダンテの空想に基づいていますから、聖書にはそのようなことは...

マルコ14:1-9「奉仕の価値」

  序 「 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます 」。今日この場所でもまさにこのイエスさまのことばは実現しています。今日の箇所に出てくる女性の名前を私たちは知りません。名前だけでなく、社会的地位も、生い立ちも、なぜこの場所にいるのかも分かりません。完全に無名の女性です。しかし、その無名の女性の行ったことがイエスさまの目に留まり、福音書に記され、今や全世界に、東の果ての日本にさえ、彼女のしたことが伝えられている。不思議で、驚くべきことです。   女性の行動と人々の非難 改めて、今日の箇所を冒頭から見ていきましょう。 1-2 節は祭司長たちと律法学者たちの企みについて記しています。いよいよイエスさまの身に危険が迫っている。十字架がもう目の前に来ている。切迫感があります。 そんな中、イエスさまはエルサレム近くのベタニアという場所で、シモンという人の家で食事をしていました。すると、ある女性が「 純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ 」とあります。このナルド油というのは非常に香りの強い香油です。インドのヒマラヤの方でよくとれる植物を加工したものだそうで、実は今私の手元にあるこの小瓶の中に入っているものがそうです。昔イスラエルに行った際に、いつかこの箇所から説教をするときに使えるかなと思って買っておいたもので、今回初めて役に立っています。関心のある方には礼拝後にお貸ししたいと思いますが、やはりとても強い香りです。蓋を開けて部屋に置いておくとすぐにその香りでいっぱいになります。そしてやはりとても高価なもので、この女性がもっていた量だと三百デナリ以上、日本円に換算すると 300 万円以上の価値があったと書いてあります。その非常に高価なナルド油を、この女性はイエスさまの頭に注いだのです。部屋はあっという間にナルド油の香りでいっぱいになったことでしょう。 すると、その場にいた者たちの何人かが批判を始めます。「 何のために、香油をこんなにも無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに 」。正論です。その場にいたほとんどの人は「そうだそうだ!」と思ったことでしょう。一体この女性は何をしている...