投稿

7月, 2022の投稿を表示しています

マルコ11:22-25「祝福を確信する」

  序 前回の説教では、いちじくの木といわゆる「宮清め」の箇所から御言葉に聴きました。豊かに生い茂る「葉」ではなく、「実」を見られるイエスさま。そして実をならせなかった旧約の「祈りの家」である神殿への裁きが行われていく。それが前回の箇所でした。 そこで、前回の箇所と今日の箇所とのつながりについても触れました。旧約の「祈りの家」である神殿への裁きを行われたイエスさま。それでは神の民の「祈りの家」はなくなってしまうのか。そうではなく、今度は「あなたがた」、弟子たちが新しい「祈りの家」となる。祈りの共同体として歩んでいくことになる。そこで、イエスさまは新しい「祈りの家」である弟子たちに向けて、祈りの極意を教えていく。それが今日の箇所です。   不可能を祈る ではその祈りの極意とは何か。イエスさまは単刀直入に語り始めます。 22 節「 イエスは弟子たちに応えられた。『神を信じなさい。』 」祈りの極意は、「神を信じること」、信仰だとイエスさまは言われました。祈りと信仰。当たり前のことのように思えるかもしれません。私たちは信仰をもって祈る。神さまを信じているから祈る。 けれどもイエスさまはその当たり前のことをここで改めて問われます。 23 節「 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。 」山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と言う。「そんな祈り自分はしない」と感じるかもしれませんが、これは人の力では不可能なことを神さまに祈るということのたとえです。そしてよくよく考えると、私たちは普段からこういう祈りをしていると思うのです。自分の力ではどうにもならないこと、自分ではコントロールできないこと、でもこうなってほしいという願いがある、だから私たちは祈る。自分では不可能だからこそ祈る。ここでイエスさまは何も特別な祈りのことではなく、私たちがよくする祈りのことを言われています。   ことばと心 そしてここでのポイントは、「心の中で疑わずに」ということです。私たちは自分の力では不可能なことを祈ります。「神さま、〜してください。お願いします」とことばに発します。けれどもその「ことば」と私たちの「心」は果たして一致しているかどうか。イエスさまが問うているのはそこです。「立ち

マルコ11:12-25「実りを見る主」

序 少し長い箇所を一気に読んでいただきました。今日の箇所のイエスさまはいつもと雰囲気が違うように感じます。まずは冒頭で、実のなっていないいちじくの木に対して「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」と言葉を発されたイエスさま。実がなっていないくらいでなぜそこまで言うのか、驚きます。しかも 13 節の最後を見ると、この時期はまだいちじくのシーズンではなかったとあります。それを考えると、イエスさまの発言はあまりにも理不尽です。 12 節を見るとイエスさまは空腹だったとありますから、お腹が空いてイライラしていたのかな、なんて想像もしてしまいます。いずれにせよ、いちじくの木はイエスさまの言葉通り、夕方には根元から枯れてしまいました。かわいそうな木です。 そしてその間に挟まれているのが、神殿でのエピソードです。神殿に入るや否や、そこら中を荒らし回り、人々を追い出すイエスさま。これまで見たことがないほどの過激な姿です。空腹といちじくの木で溜まったイライラを一気に発散させている、ここでもそんな想像をしてしまうかもしれません。けれども実際は笑い事では済まされないことです。神殿というのは当時のイスラエルの宗教、文化、政治の中心ですから、そこを荒らすというのは国に対する反逆ともとれる行動です。実際、 18 節にあるように、この出来事を機にイエスさまは明確に命を狙われるようになります。イエスさまは十字架の道に自ら足を踏み入れていったのです。   神殿の堕落 イエスさまは一体なぜこのようなことをしたのか。今日の箇所を読み解いていくためには、この箇所の構造に目を留める必要があります。この箇所は、いちじくの木のエピソードの間に神殿でのエピソードが記されているという、いわゆるサンドイッチ構造になっています。これはマルコの福音書で何度か使われている文学手法でして、 5 章の会堂司ヤイロと長血の女の箇所でも使われていました。その時にもお話ししましたが、二つのエピソードがサンドイッチのように組み合わされている時、大事なのはその二つを一緒に味わうということです。もちろんサンドイッチは分解してもおいしいですけれども、作り手は一緒に食べてほしいからわざわざサンドイッチにしているわけです。ですからそれぞれのエピソードを分けて考えるのではなく、一つのテーマのもとに一緒に見ることによって、このサ

マタイ6:10「みこころが行われますように」

序 今日は月に 1 回の年間テーマに基づく説教です。はじめに年間聖句をともに読みましょう。週報の一面をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ 11:1 )。この聖句から、「祈りに生きる教会」という目標のもと、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」を中心にみことばに聴いています。今日は「御名が聖なるものとされますように」、「御国が来ますように」に続く第三の願い、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」です。ここまでの三つの願いはすべて一つのテーマのもとにつながっています。「神の国」というテーマです。私たちは神の国、神さまの支配がこの地上になることを祈り求める。すると神の国がもたらされたところでは必然的に御名が聖なるものとされます。御名があがめられる。そしてそこでは同じく必然的にみこころがなされていきます。神の国がもたらされる時に、自ずと他の願いも実現していく。そのような意味で、「主の祈り」は「神の国を求める祈り」であると言うこともできます。   「みこころ」とは? その中で今日私たちは「みこころが行われますように」という第三の願いに焦点を当てていきます。「みこころが行われますように」。「みこころ」とは何でしょうか。教会以外ではあまり使われることのないことばかもしれません。この箇所を直訳すると、あなたの意志、あなたの願いがなりますようにということばになります。神さまのご意志、神さまの願いがその通りになりますようにということ。 そしてその後には、「天で行われるように、地でも行われますように」とあります。「天」というのは神さまがおられる領域のことです。そこにはイエスさまもおられて、御使いがいて、すでに召された信仰者たちもいるわけですが、そこでは神さまのご意志が、みこころがなされています。神さまのみこころに反するものは一切ありません。しかしそれに比べてこの地上はどうか。前回の「御国が来ますように」のところで確認したように、この地上に神の国はすでにもたらされていますが、いまだ完成しておらず、悪の力がそこに存在しています。神さまのみこころに反する勢力が存在し、みこころに反することが行われている。だから私たちは祈る