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マルコ9:38-41「神の国の視点」

  「雷の子」 イエスさまには十二人の中心的な弟子たちがいました。十二人のリストはマタイ、マルコ、ルカの福音書にそれぞれ記されていますが、実は弟子の代表格であるペテロ以外の弟子たちの個人のことばというのは福音書にはあまり記されていません。今日の箇所はそういった意味で少し珍しいと言えるかもしれません。ここでは十二弟子のひとり、ヨハネが登場します。このヨハネという弟子は、マルコ 3:17 を見ると、兄弟ヤコブとともに「ボアネルゲ」、訳すと「雷の子」という名がつけられたとあります。おそらくこの兄弟がもっていた雷のような激しい性格からこの二つ名が付けられたのだと思われます。 今日の箇所でもそれがよく表れています。 38 節「 先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです 」。得意げな顔で報告している様子が目に浮かびます。街中を歩いていたら、「イエスの名によって、悪霊よ、出ていきなさい!」と悪霊追い出しをしている人がいた。しかもそれがなんと成功していた。それを見たヨハネは、「そういう活動をするなら俺らの仲間に入れよ」と声をかけたところ、「いや、結構です」と断られた。するとヨハネは、「俺らの仲間に入らないなら勝手にイエスさまの名前を使って活動をするな!」と逆上し、やめさせようとした。そうすべきだと思ったからです。ですから今日の箇所でも、「イエスさま、不届き者を成敗してきましたよ」と意気揚々と報告したのだと思います。イエスさまに褒めてもらえると思ったのでしょう。   正統派のプライド しかしイエスさまからは予想外の反応が返ってきました。 39-40 節「 しかし、イエスは言われた。『やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。』 」ヨハネからしたら、「え、そんなまさか…」という反応です。よかれと思って行動したのに、「やめさせてはいけません」と逆に注意されてしまった。ヨハネはバツが悪かったに違いありません。 一体何が問題だったのか。注目したいのは、 38 節の最後「 その人が 私たちに ついて来なかったからです 」という部分です。「私たちについて来なかった」。ヨハネが問題視したのは、その人が「あ

マルコ9:30-37「神の国の大逆転」

  序 今日からマルコの福音書は新しい区分に入ります。これまでイエスさまは主にガリラヤという地方で神の国を宣べ伝える働きをしてきました。人々を教え、神の国のしるしとしての癒しのわざや悪霊追い出しを行い、その一つのクライマックスとして、 9 章前半の変貌山の出来事、イエスさまの神さまとしての栄光の姿が現されるという出来事がありました。華々しい活躍がそこにはあったわけですが、今日の箇所を境に、イエスさまのいわゆる「奇跡」のわざはあまり記されなくなります。そしてその代わりに、弟子たちの教育により力を入れるようになっていきます。今日の 30 節には「 一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った 」とありますが、イエスさまは今日の箇所から、ガリラヤに留まり続けるのではなく、エルサレムへと向かう旅路、十字架への旅路を歩み始めることになるのです。   弟子たちの誤解 それを暗示するかのように、イエスさまは早速ご自身の十字架と復活を予告されます。 31 節「 それは、イエスが弟子たちに教えて『人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる』と言っておられたからである 」。ご自身がこれから通るであろう苦難の道とそれに続く復活の希望をはっきりと語られるイエスさま。しかし 32 節を見ると、「 しかし、弟子たちはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた 」とあります。なぜここまではっきり言っているのに理解できないのかと思ってしまいますが、イスラエルの王となるべき救い主メシアが殺されるというのはそれほど理解し難い、信じ難いものだったということです。しかも彼らは恐れて尋ねることさえしなかった。 8 章の後半では同じようにイエスさまが受難と復活を予告されるシーンがありましたが、そこで一番弟子のペテロがそれを戒めて、イエスさまにこっぴどく叱られたのを弟子たちはよく覚えていたと思いますので、それがトラウマになっていたのかもしれません。 いずれにせよ、彼らはイエスさまがこれから何をしようとしているのかについて、全くの誤解をしていました。イエスさまもそのことをよく分かっていたので、彼らに尋ねました。 33-34 節「 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じ合っていたのですか。』彼らは黙っていた。

詩篇121「私の助けはどこから来るのか」

  序 11 月に入り、 2021 年も残すところわずかとなりました。今日は 11 月の第一主日ということで、年間テーマに基づく説教をします。はじめに年間聖句を読みましょう。週報の表面をご覧ください。「 主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない 」。「先立って進まれる主とともに」、今日はこの年間テーマから、先立って進まれる主は私たちに必要な助けを備えてくださるお方であるということを、詩篇 121 篇から学んでいきたいと思います。   全体の流れ この詩篇の表題は「都上りの歌」となっています。都上りとは、エルサレムへの巡礼のことです。神殿で神さまを礼拝するために、イスラエルの各地から人々がエルサレムへの巡礼の旅に出ていく、そのような場面で歌われた詩だと考えられます。 1 節「 私は山に向かって目を上げる 」。詩人は巡礼の旅の最中にあります。目の前には山々がある。日本のように、緑に覆われた山ではありません。何もない荒野にそびえ立つ、ゴツゴツとした山々です。その山々に向かって目を上げながら、詩人は自分自身に問いかけます。「 私の助けは どこから来るのか 」。詩人は助けが必要な状況にありました。それもそうです。巡礼の旅というのは決して楽しいことばかりではありません。荒野での旅ですから、大きな危険が伴います。日中は暑い太陽に照らされながら、夜は寒さに震えながら歩いていかなければいけない。野の獣や強盗に襲われるかもしれない。水や食料が尽きたらどうしようか。不安の種は尽きません。だからと言って、周りを見渡しても、自分を助けてくれそうなものは何もない。目の前に広がっているのは、何もない荒野だけ。「 私の助けは どこから来るのか 」。自分自身に問うしかない。切実な問いです。 しかし、詩人の内に迷いはありませんでした。一つの揺るがない確信がありました。 2 節「 私の助けは主から来る。天地を造られたお方から 」。これは詩人の信仰の告白です。「私の助けは主から来る」、これは遠くにおられる主が何らかの方法で助けを送ってくださるという意味ではありません。原語のヘブル語を見ると、ここでは主の臨在を表す「ともに」ということばが使われています。「私の助けはともにいてくださる主から来る」ということ