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マルコ3:20-30「勝利された主」

  今朝私たちが開いているマルコ 3 章 20 節から 3 章の終わりの 35 節までは、一連の流れになっています。この一連の流れのテーマは「誰が神の家族に属しているのか」です。そして今日の 20 節から 30 節まででは、神の家族に属していない、イエスさまに敵対している二つのグループが出てきます。一つ目のグループは 20-21 節に出てくる「イエスの身内の者たち」、そして二つ目のグループは 22 節以降に出てくる「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。一つ目のグループ、「イエスの身内の者たち」に関してはまた次の 31-35 節でも出てきますので、今朝私たちは二つ目のグループ、「エルサレムから下って来た律法学者たち」に注目して御言葉に聴いていきたいと思います。 22 節「 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、『彼はベルゼブルにつかれている』とか、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している』と言っていた。 」「エルサレムから下って来た律法学者たち」、いよいよ敵の本丸が登場してきたという感じがします。これまでイエスさまに敵対していたのはガリラヤという田舎のパリサイ派の人々、そして律法学者たちでしたが、イエスさまの存在はついにエルサレムの律法学者たちにとっても脅威となったのでしょう。ユダヤ教の総本山であるエルサレムのエリート律法学者たちまでもがイエスさまのもとにやって来て、イエスさまを批判し始めました。 ただしこの彼らの批判、よく考えるととても賢い批判だということがわかります。彼らは「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」とイエスさまを批判したわけですが、これは、イエスさまが悪霊追い出しをする力があることは認めているということを意味します。イエスさまが何かしらの霊的な力をもっていることは最早否定できない事実でした。ですが彼らは何としてもイエスさまを失脚させなければいけません。そこで彼らが思いついたのは、イエスさまの悪霊追い出しの力の源は「聖霊」ではなく「悪い霊」「悪霊のかしら」「ベルゼブル」にあるということでした。ここで「ベルゼブル」と呼ばれているのは、要するに悪霊のかしら、サタンのことです。イエスさまの力は認めつつも、それは神、聖霊の力ではなく、悪の力、サタンの力だと言いふらす。「イエスが神の子なんてとんでもない、あいつはサタンの

マルコ3:13-19「主が望まれる者」

  今日私たちが開いているのは、あの有名なイエスさまの 12 弟子が任命される箇所です。皆さんは 12 人全員覚えていらっしゃるでしょうか。中には 12 弟子の歌で覚えているという方がいらっしゃるかもしれません。「ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとトマスとマタイたち…」という歌ですね。この歌を覚えれば 12 弟子全員の名前が言えるようになるという、画期的な子ども賛美歌です。ただ、この 12 弟子はイエスさまの宣教活動の初めから存在していたわけではありません。先週確認したように、イエスさまは癒しの業などによって群衆から大きな支持を得ていました。けれども、イエスさまは自分の願いを叶えてもらうためだけにイエスさまのもとに集まる群衆ではなく、自分の必要を超えて、共に神の国の働きを担う「弟子」を求めたのでした。そこで選ばれたのが今日出てくる 12 弟子です。 ですが、なぜイエスさまが選んだのは 12 人だったのでしょうか。もちろん 12 人ぐらいの集団が一番扱いやすいということはあったかもしれません。まとまって行動できますし、指示も出しやすいですし、 12 人というのはちょうどいい人数です。けれどもそれ以上に、この 12 という数字は特別な意味をもっていました。聖書に親しんでいる方はすぐにピンと来られたかもしれませんが、この 12 という数字は、イスラエルの 12 部族を表しています。旧約聖書の出エジプト記の中で、神さまはシナイ山という山(これがポイント!)で、モーセを通してイスラエルの 12 部族をご自身の民として選び、イスラエルを通してこの世界を救い、この地上に神の国を建て上げていこうとされました。けれども残念ながら、イスラエルはその後神さまに逆らい、堕落し、ついにはその使命を果たすことができませんでした。このままでは、選びの民を通してこの世界を救うという神さまの計画が途絶えてしまいます。そこで、父なる神さまはイエスさまを通して、新しい神の民を作り上げることにされたのです。先ほど「山」がポイントだと言いましたが、今日の 13 節を見てください。そこではイエスさまが「山に登り」弟子たちを任命したと書いてあります。神さまは以前、シナイ山という山でイスラエルの 12 部族を神の民として選ばれたように、今日の箇所でイエスさまは山に登り、そこで新しい神の民である 12 弟子

マルコ3:7-12「神の国の働きをともに担う者へ」

  昨年の 11 月、ローマ教皇が 38 年ぶりに来日するという出来事がありました。コロナのことがあってもうずいぶん前のことのように思えますが、その時の人々の熱狂ぶりをみなさんもよく覚えておられると思います。連日テレビではローマ教皇の様子が報道され、様々なグッズも売り出され、東京ドームで行われたミサには 5 万人もの人々が駆けつけていました。まるで世界のトップアイドルが来たかのような雰囲気で、フランシスコ教皇の知名度や人気は爆発的に上がりました。けれどもそれでクリスチャンが増えたかと言われれば、特にそういう話は聞かないなというのが正直なところです。教皇のファンは増えたかもしれませんが、そこから一歩進んで、イエスさまを自らの主として信じた人は残念ながらわずかだったのではないかと思います。 今日の箇所では、イエスさまの爆発的人気の様子が描かれています。この箇所は、イエスさまのガリラヤでの宣教の前半のまとめとも言えるようなところです。 7 節の冒頭でイエスさまはおそらく休みをとるために湖の方に退かれたとありますが、人々はイエスさまを解放しようとはしませんでした。ここで注目すべきは、イエスさまの宣教の広がりです。 7-8 節を見ると、イエスさまの名前は南のユダヤ、エルサレム、そのさらに南にあるイドマヤ、東にあるヨルダンの川向こうの地方、そして北にある異邦人の町ツロ・シドンにまで広まっていたことが分かります。ガリラヤの片田舎から始まった福音は、今やイスラエル中、そしてイスラエルを超えた地域にまで広がっていました。前の箇所で見たように、イエスさまとパリサイ人たちとの対立は深まるばかりでしたが、それにもかかわらず、一般民衆からは絶大な人気を得ていたようです。 では、イエスさまはなぜ人気だったのでしょうか。 8 節後半にはこうあります。「 非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。 」もちろんイエスさまの教えに興味があって来た人もいたことにはいたと思いますが、大多数の人々はイエスさまの教えというよりも、イエスさまが行っておられたこと、癒しの業や悪霊追い出しの業についての噂を聞いて、それを求めにイエスさまのみもとにやって来たようです。 そのように言うと、それがあまりよくないことのように聞こえるかもしれませんが、決してそういうことではありません。癒しと