マルコ3:13-19「主が望まれる者」

 今日私たちが開いているのは、あの有名なイエスさまの12弟子が任命される箇所です。皆さんは12人全員覚えていらっしゃるでしょうか。中には12弟子の歌で覚えているという方がいらっしゃるかもしれません。「ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとトマスとマタイたち…」という歌ですね。この歌を覚えれば12弟子全員の名前が言えるようになるという、画期的な子ども賛美歌です。ただ、この12弟子はイエスさまの宣教活動の初めから存在していたわけではありません。先週確認したように、イエスさまは癒しの業などによって群衆から大きな支持を得ていました。けれども、イエスさまは自分の願いを叶えてもらうためだけにイエスさまのもとに集まる群衆ではなく、自分の必要を超えて、共に神の国の働きを担う「弟子」を求めたのでした。そこで選ばれたのが今日出てくる12弟子です。

ですが、なぜイエスさまが選んだのは12人だったのでしょうか。もちろん12人ぐらいの集団が一番扱いやすいということはあったかもしれません。まとまって行動できますし、指示も出しやすいですし、12人というのはちょうどいい人数です。けれどもそれ以上に、この12という数字は特別な意味をもっていました。聖書に親しんでいる方はすぐにピンと来られたかもしれませんが、この12という数字は、イスラエルの12部族を表しています。旧約聖書の出エジプト記の中で、神さまはシナイ山という山(これがポイント!)で、モーセを通してイスラエルの12部族をご自身の民として選び、イスラエルを通してこの世界を救い、この地上に神の国を建て上げていこうとされました。けれども残念ながら、イスラエルはその後神さまに逆らい、堕落し、ついにはその使命を果たすことができませんでした。このままでは、選びの民を通してこの世界を救うという神さまの計画が途絶えてしまいます。そこで、父なる神さまはイエスさまを通して、新しい神の民を作り上げることにされたのです。先ほど「山」がポイントだと言いましたが、今日の13節を見てください。そこではイエスさまが「山に登り」弟子たちを任命したと書いてあります。神さまは以前、シナイ山という山でイスラエルの12部族を神の民として選ばれたように、今日の箇所でイエスさまは山に登り、そこで新しい神の民である12弟子を選ばれたのです。新しい神の民。そういった意味で、この弟子たちは私たちが今集っている教会の原型と言える存在です。私たちはここで、新しい神の民としての教会の姿を見ることができます。

では、教会の原型であるこの12弟子が選ばれた具体的な目的とは何だったのでしょうか。14-15節にそれが書いてあります。「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威をもたせるためであった。」ここには大きく二つの目的が書いてあります。一つ目は、「そばに置くため」、二つ目は「遣わす」ためです。まず一つ目、「そばに置くため」ですが、イエスさまはいきなり弟子たちを派遣しようとはなさいませんでした。まずはご自分のそばに置いて、訓練しようとなされたのです。そして訓練を経た後、二つ目の目的である「遣わす」ということが起こってきます。彼らは何のために遣わされるのか、それは14節最後から15節にあるように、「宣教」と「悪霊追い出し」のためです。それはまさにイエスさまがなさっていた働きでした。イエスさまは宣教と悪霊追い出しの働きによって、この地上に神の国が到来したことを宣言されていました。そのイエスさまの働きを遣わされた場所で共に担うというのが弟子たちの選ばれた目的だったのです。それは言葉を換えれば、弟子たち自身が「小さなイエスさま」になるということです。「小さなイエスさま」として、遣わされた地で神の国の到来を告げ知らせていく。それが弟子たちに与えられた使命でした。

そして、それは新しい神の民である教会の使命でもあります。「悪霊追い出し」というといまいちピンと来ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、「悪霊追い出し」とは要するに、目に見える「しるし」「行動」をもって神の国の到来を告げ知らせるということです。ですから教会の使命というのは、遣わされた地で「小さなイエスさま」として、ことばと行いの両をもって神の国の到来、イエスさまこそがこの世界の真の主であることを告げ知らせるということなのです。けれどもイエスさまは私たちを遣わしたきり放って置かれるわけではありません。イエスさまはいつも私たちのただ中にいてくださって、私たちに必要なことを教え、訓練し、力付けてくださるのです。ですから私たちは内におられるイエスさまから力を得ながら、そして教えられながら、それぞれの場所へと遣わされていくのです。そのために私たち教会は選ばれている。イエスさまと共に神の国を建て上げていく、新しい神の民として選ばれている。そのような教会の使命を改めて確認したいと思います。

さて、今日の箇所の後半では、12弟子のリストが上げられています。そのリストを見ていきますと、弟子たちの知名度にはかなり差があることが分かってきます。序盤のペテロ、ヤコブ、ヨハネ、そして最後のイスカリオテのユダは私たちもよく知っています。アンデレ、ピリポ、マタイ、トマスあたりもまあまあイメージできる弟子たちかもしれません。けれどもバルトロマイ、タダイ、熱心党のシモンあたりは、「そんな人いたっけ」と思うほど聖書の中では地味な存在です。どの組織にも目立つ人と目立たない人の両方がいますが、おそらく12弟子の中でもそういった違いがあったのだと思います。

また、12弟子の中では職業や社会的ステータスもバラバラでした。一番多かったのは漁師です。けれども中には収税人だったマタイ、別名レビや、熱心党という過激な政治グループにいたシモンなどもいました。また、福音書を読んでいると弟子たちが一致団結している場面というのはあまりません。むしろ些細なことで言い争いをしている場面もありますから、おそらく弟子たちの性格もバラバラだったのだと思います。

そのように、12人の弟子たちは一見まとまりのない、バラバラな集団でした。けれども、そんな彼らを確かに結びつけていたものがありました。もう一度13節に目を留めましょう。「さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。」彼らを結びつけていたものは、イエスさまが彼らを望まれたという一点の事実でした。彼らが特別優秀だったからではありません。特別熱心だったからでも、特別勇敢だったからでもありません。実際福音書を読んでいくと分かるように、弟子たちはこの後多くの失敗を犯していきます。何かあればすぐに臆病になり、イエスさまを信頼しきることができない。何度言われてもイエスさまの言っていることが理解できない。そして十字架の夜、ついに弟子たちは自分の身を守るためにイエスさまを捨てて逃げ出してしまいます。ダメダメな弟子たちです。イエスさまはこの時点でそれを分かっておられたことでしょう。しかし、それでもイエスさまは彼らを望まれたのです。彼らと一緒に神の国を建て上げる働きをしたいと望まれたのです。そして彼らはそのイエスさまの招きに応答し、みもとに集まりました。それが新しい神の民の歩みのスタートとなったのです。

教会も同じではないでしょうか。教会は本当に不思議な組織です。出身、職業、社会的ステータス、年齢、性格、みんなバラバラです。弟子たちのように、目立つ人、目立たない人の両方がいます。信仰歴の長い人、短い人、様々です。そんなバラバラの人たちが集まっている組織ですから、上手くいかないことがあるのは当然です。馬が合わない人もいるかもしれません。また中には、信仰熱心なあの人と比べて自分はダメな弟子だと思っている人もいるかもしれません。けれども、そんな私たちにも共通しているものが一つだけあります。それは、私たちはみなイエスさまに望まれてここにいるということです。イエスさまは私たちにここにいて欲しいと願っておられます。私たちと一緒に神の国を建て上げる働きをしたいと願っておられます。私たちが何かできるからではありません。何か優れているからではありません。ただイエスさまが私たちを愛し、私たちをそばに置きたいと願われたからです。ここに集う私たちは皆そうです。自分自身も、横にいる人も、前にいる人、後ろにいる人も、みんなイエスさまに望まれてこの教会に集められているのです。ですから私たちを望んでくださったイエスさまに、私たちは喜びをもって応答していきたいと願います。「小さなイエスさま」として、イエスさまと一緒に神の国の到来をこの世界で宣べ伝えていきたいと願います。それこそが、新しい神の民である私たち教会の姿です。

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」