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マルコ14:53-65「さばきの前で」

  正義はどこへ 舞台はサンヘドリンと呼ばれる最高法院、今でいう最高裁判所です。祭司長、長老、律法学者、当時の権力者たちが勢揃いし、イエスを裁判にかけました。しかし、そこにもはや正義はありませんでした。 55-59 節「 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼の不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。『「わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる」とこの人が言うのを、私たちは聞きました。』しかし、この点でも、証言は一致しなかった。 」 本来であれば公正と正義を追い求めるはずの裁判がなぜこうなってしまったのか。始まりは正義感だったはずです。「ナザレのイエスという男が大きな影響力をもち始めているらしい。しかも奴は私たちが先祖代々大事にしている教えを否定し、あの神殿のことも批判して、自らがキリストであると名乗っているらしい。そんな奴を放っておいては民衆が皆惑わされてしまう。神からこの国を託されている者として、あの偽預言者を、偽メシアを排除しなければいけない!」祭司長、長老、律法学者たちは、自分たちこそが正義なのだと確信していました。自分たちこそが神さまの側にいる。 しかし、正義感というものは時に人を暴走させます。どんな手段を使ってでも正義を達成しなければいけない。多少の不正くらい問題ないだろう。自分たちこそが正しいんだから、誰も文句は言えないはず。そのような行き過ぎた正義感から、彼らは偽証、偽りの証言を繰り返しました。「偽りの証言をしてはならない」。彼らが何よりも大切にしていた十戒を破ってでも、達成しなければいけない正義があった。恐ろしいほどの正義感。純粋な悪意よりも厄介かもしれません。 今の日本の社会にも私は同じものを見ます。著名人が何か問題を起こすと、インターネットを通じて人々が一斉に寄ってたかり、罵詈雑言を浴びせかける。ネットリンチと言われます。あるいは SNS が発達した今、一般人でも何か炎上騒ぎを起こすと、住所、電話番号、学校、職場があっという間に特定され、迷惑行為が後をたたなくなる、そのような話を頻繁に耳にします。コロナ禍では、自粛警察とい

マルコ14:43-52「恵みを語り継ぐ」

  勝ち誇る人々 いよいよイエスさまが捕まる場面です。イエスさまと弟子たちがオリーブ山のゲツセマネにいたところ、ユダが武装した群衆を引き連れてやって来ました。 44-46 節「 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、『私が口づけするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ』と言っておいた。ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、『先生』と言って口づけした。人々はイエスを手にかけて捕らえた 」。口づけというのは当時の習慣で、弟子が先生(ラビ)に対して尊敬をもってする一般的な挨拶でした。しかしユダはそれを裏切りの開始の合図として用いた。悲劇的なことです。 そしてユダと群衆たちはイエスを捕えることに成功しました。予想以上にうまくいったはずです。 47 節には、「 そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした 」とあります。ヨハネの福音書を見ると、これをしたのはペテロだったということが明かされていますが、いずれにせよ、抵抗と言える抵抗はそれだけでした。当のイエスは全く抵抗しませんし、弟子たちもそれ以上抵抗することなく、あっさりとイエスを見捨てて逃げていってしまった。こんなにあっさりと事が運ぶのか。こんな武装してくる必要なかったじゃないか。作戦は予想を遥かに超える大成功。これでお偉いさんたちに気に入ってもらえる。ご褒美がもらえる。彼らは勝ち誇っていたことでしょう。   神の国の視点 しかし、その場の主導権を握っていたのは実はユダと群衆ではありませんでした。 48-49 節「 イエスは彼らに向かって言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。』 」「しかし、こうなったのは聖書が成就するためです」。イエスさまは、この出来事の背後にある神さまの救いの計画を見ておられました。そもそも、イエスさまは抵抗しようと思えばできたはずです。弟子たちはイスラエルの国を再び立ち上がらせる軍事的な救い主を求めていましたから、イエスさまがここで「戦え!」と命じたら、弟子たちは懸命に戦ったと思います。そもそも、エルサレムに来なければイエスさまはもっと安全

使徒4:1-22「唯一の救い」(使徒信条 No.3)

  序 今日は 5 月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばにともに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読み上げましょう。「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです 」(ローマ人への手紙 10 章 9-10 節)。この聖句から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条を順番に学んでいます。   キリスト教信仰とは 前回、使徒信条は大きく分けて父なる神、子なる神、聖霊なる神という三つの部分からなっているとご紹介しました。前回はその中の父なる神についての告白を扱いましたので、今日から第二の部分、子なる神、イエス・キリストについての告白に入っていきます。パッと見て分かるように、使徒信条の中でこの子なる神についての告白は一番長くなっています。なぜか。一番重要だからです。もちろん三位一体の神さまはみな等しい神さまで、そこに優劣はありません。ただそもそも私たちはどのようにして三位一体の神さまを知ることができたのかというと、それはやはり子なる神、イエス・キリストを通してということになります。聖書にはこのようなことばがあります。「 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである 」(ヨハネ 1:18 )。目に見えない神さまが、目に見える人として、イエス・キリストとしてこの地上に来て、ご自身を現してくださった。イエス・キリストを通して、神さまの救いが、神さまの愛が私たちに明らかにされた。私たちの信仰の原点、中心はイエス・キリストにあるのです。私たちの信仰が「キリスト教信仰」と呼ばれるのはそのためです。 イエス・キリストについての長い告白は全部で 8 回に分けて扱っていく予定です。今日はそのはじめの部分、「わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白を見ていきます。この告白は非常に中身が詰まっています。「ひとり子」「主」「イエス」「キリスト」、それぞれのことばが非常に豊かな意味をもっていますから、それを 1 回でどのように語ろうか、正直なところかなり悩みました。その中で出会ったのが、