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マルコ1:1「福音のはじまり」

  序 おはようございます。今朝私たちに与えられている聖書箇所はマルコの福音書 1:1 です。 1:1 ということでお察しの方もいるかと思いますが、これからしばらく、私が説教を担当する礼拝ではマルコの福音書の御言葉に共に聴いていきたいと思います。このようにある特定の書を順番に説教していくというのを教会では「連続講解」と言うのですけれども、今日はマルコの福音書の連続講解の 1 回目ということで、この 1:1 にのみ焦点を当てて、御言葉に聴いていきましょう。   すでに始まっている「よいニュース」 「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。マルコの福音書はこの短い 1 節から始まります。ここで 1 番の鍵となる言葉は「福音」です。英語ですと  “gospel”  あるいは  “good news”  と訳されている言葉です。この「福音」という言葉はすでにキリスト教の専門用語になっていますけれども、元々意味しているのは、  “good news”  という英語からも分かりますように、「よい知らせ」、「よいニュース」のことです。 「よいニュース」と聞いてみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。ここ最近はテレビをつけてニュースを見ても、流れているのはいつも新型コロナウイルスに関することです。今日は感染者が何人だった、どこどこでクラスターが発生したなど、聞いていて先が思いやられるような暗いニュースばかりです。いわゆる「よいニュース」はほとんど流れません。ですから、今この世界はまさに「よいニュース」を切実に求めています。それは、新型コロナウイルスの特効薬が見つかった、ワクチンが完成した、感染者数が激減し始めている、そういったかもしれません。いずれにせよ、この世界は「よいニュース」を切実に求めています。 しかしこのマルコの福音書 1:1 はそんな私たちに、「真の『よいニュース』はすでに始まっているのだ」と教えます。ある翻訳はこのマルコ 1:1 をこのように訳しています。「ここに始まる、神の子、イエス・キリストの福音」。これは、この箇所に込められた著者マルコの意気込みがよく表現された翻訳だと思います。「聞いてくれ、本当の『よいニュース』は、神の子であるイエス・キリストによって始まっているんだ!」そんなマルコの熱い思いがこの 1:1 には込められているわけです。   「福音」とは ただ

ルカ24:1-12「イエスのことばを思い出す」

  序 おはようございます。そしてイースターおめでとうございます。イエスさまの十字架を特別に覚える受難週を過ごした後、このようにイエスさまの復活をお祝いするイースターの主日を共に迎えられたことを感謝します。 先週月曜日、この教会で昨年受洗された菊池かづ子姉が天に召されました。 79 歳でした。生前菊池かづ子姉は、葬儀は鴇田先生の下、家族葬で行いたいと希望されていましたので、急遽鴇田先生が駆けつけてきてくださり、 8 日水曜日に前夜式、 9 日木曜日に告別式を行いました。ご遺族のみなさんにとっては初めてのキリスト教の葬儀だったようですが、そこで鴇田先生は、イエスさまを信じた菊池かづ子姉には復活の希望がある、御国での再会の希望があるということを力強く語っておられました。もちろん人の死というのは大変悲しく寂しいものですけれども、私たちにはその悲しさ、寂しさの先に復活の希望が待っているのだということを改めて思わされた時でした。 さて、今日は私たちに与えられているそのような復活の希望の原点である、イエスさまの復活の記事から共に御言葉に聴いていきたいと思います。   女性たちの悲しみと絶望 ルカの福音書の 24 章は、イエスさまにずっと付き従っていた女性たちに起こった出来事を記すところから始まります。この直前の 23 章の終わりを見ますと、この女性たちはイエスさまの十字架を遠くから見守り、イエスさまが息を引き取った後、その遺体がアリマタヤのヨセフによって墓に納められるのを見届けていました。そして数えで三日目の日曜日の朝、彼女たちはイエスさまの遺体をケアするために、香料を持ってお墓に来たというのが復活のストーリーの始まりです。 この時の女性たちは悲しみと絶望のどん底にいました。私たちの愛するイエスさまがついに死んでしまった。あの方こそが私たちの救い主だと思いっていたのに。私たちはこの先何に期待して生きればいいんだろうか。そんなことを思いながら、女性たちはお墓にやって来ました。   復活を理解できない人間 すると、何と墓を塞いでいたはずの石がわきに転がされています。お墓の中を見にいくと、イエスさまの遺体が見当たりません。イエスさまが亡くなられたことだけでも悲しいのに、その上遺体まで盗まれてしまうなんて。女性たちは途方に暮れるしかありませんでした。 その時、二人の御使いが女性たちの目

ルカ23:44-49「父の御手にゆだねる」

序 おはようございます。今日、みなさんと共に集い、共に御言葉に聴くことが許されていることに感謝しています。月間予定表や週報にも書いてありますように、本日の礼拝は「棕櫚の主日礼拝」という少し特別な名前がついています。「棕櫚」というのはあまり聞き慣れない言葉だと思いますし、この漢字もなかなか難しい漢字です。この「棕櫚」というのは、今でいうなつめ椰子のことらしいです。聖書の福音書には、イエスさまが十字架にかかる前、最後にエルサレムに入城された際に、人々は葉っぱのついた枝を敷いてイエスさまを歓迎したと書いてあるのですが、ヨハネの福音書にはそれがなつめ椰子の枝だったと書いてあります。そのことから、教会はイエスさまが十字架にかかった受難日の直前の日曜日を「棕櫚の主日」と呼ぶようになったようです。そしてこの「棕櫚の主日」から、イエスさまの十字架を特別に覚える受難週が始まり、イエスさまが十字架にかかった金曜日の受難日、そしてイエスさまが復活された日曜日のイースターに向かっていくことになります。そのように、今週はイエスさまの十字架を特別に覚える 1 週間にしたいということから、このルカの十字架の箇所から共に御言葉に聴いていきたいと思います。 ゆだねるとは信頼すること 今日の説教題は「父の御手にゆだねる」としました。今日の聖書箇所は、イエスさまが十字架の上で息を引き取るという大変有名な箇所ですけれども、その中でも特に 46 節のイエスさまのことば、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」ということばに今日私たちは焦点を当てていきたいと思います。 みなさんには安心して自分の身をゆだねることのできる相手、存在はいらっしゃるでしょうか。みなさんそれぞれ今思い浮かべている顔があるかと思いますが、私にとっては父親がずっとそうでした。私はこの 4 月でようやく父親の扶養を抜けて自立したわけですけれども、これまではずっと父親に身をゆだねてきたと言えるかなと思います。今回引越しの関係で色々な手続きを初めて自分でしたのですが、これまでは完全に父に任せっきりでしたので、「ああ、こんなに面倒なことを父はいつもしてくれていたのか」と初めて知りました。私は父に完全に委ねていたので、これまで何の心配もしてこなかったのです。 この「ゆだねる」ということについて考えますと、そこには必ずあるものが必要になってきま