ルカ23:44-49「父の御手にゆだねる」

おはようございます。今日、みなさんと共に集い、共に御言葉に聴くことが許されていることに感謝しています。月間予定表や週報にも書いてありますように、本日の礼拝は「棕櫚の主日礼拝」という少し特別な名前がついています。「棕櫚」というのはあまり聞き慣れない言葉だと思いますし、この漢字もなかなか難しい漢字です。この「棕櫚」というのは、今でいうなつめ椰子のことらしいです。聖書の福音書には、イエスさまが十字架にかかる前、最後にエルサレムに入城された際に、人々は葉っぱのついた枝を敷いてイエスさまを歓迎したと書いてあるのですが、ヨハネの福音書にはそれがなつめ椰子の枝だったと書いてあります。そのことから、教会はイエスさまが十字架にかかった受難日の直前の日曜日を「棕櫚の主日」と呼ぶようになったようです。そしてこの「棕櫚の主日」から、イエスさまの十字架を特別に覚える受難週が始まり、イエスさまが十字架にかかった金曜日の受難日、そしてイエスさまが復活された日曜日のイースターに向かっていくことになります。そのように、今週はイエスさまの十字架を特別に覚える1週間にしたいということから、このルカの十字架の箇所から共に御言葉に聴いていきたいと思います。

ゆだねるとは信頼すること

今日の説教題は「父の御手にゆだねる」としました。今日の聖書箇所は、イエスさまが十字架の上で息を引き取るという大変有名な箇所ですけれども、その中でも特に46節のイエスさまのことば、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」ということばに今日私たちは焦点を当てていきたいと思います。

みなさんには安心して自分の身をゆだねることのできる相手、存在はいらっしゃるでしょうか。みなさんそれぞれ今思い浮かべている顔があるかと思いますが、私にとっては父親がずっとそうでした。私はこの4月でようやく父親の扶養を抜けて自立したわけですけれども、これまではずっと父親に身をゆだねてきたと言えるかなと思います。今回引越しの関係で色々な手続きを初めて自分でしたのですが、これまでは完全に父に任せっきりでしたので、「ああ、こんなに面倒なことを父はいつもしてくれていたのか」と初めて知りました。私は父に完全に委ねていたので、これまで何の心配もしてこなかったのです。

この「ゆだねる」ということについて考えますと、そこには必ずあるものが必要になってきます。それは何かと言いますと、「信頼」です。これは当たり前のことですが、その人に対する信頼がなければ自分の身をその人にゆだねるということはできないわけです。その人は必ず自分にとって最善のことしてくれるという信頼。その人は何があっても絶対に自分を見捨てたり裏切ったりすることはないという信頼。そういった信頼があるからこそ、私たちは自分の身を安心してゆだねることができるのです。

 

父なる神への信頼

では、今日の箇所でイエスさまは誰にご自身をゆだねておられるのでしょうか。「父よ」という呼びかけにもあるように、それは父なる神さまでした。イエスさまはここで父なる神さまへの絶対的な信頼を告白しているのです。ただし重要なのは、イエスさまはどのような状況でそのような告白をしているのかということです。どのような状況か。それは十字架の上です。神の子であるイエスさまが、両手両足を釘で打たれ、茨の冠を被せられ、人々からは「自分を救ってみろ」と罵られ、嘲られる。父なる神さまから見捨てられているとしか思えないような状況です。事実、マタイの福音書やマルコの福音書を見ると、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスさまの苦しみの叫びが記されています。私たちの想像を絶するような苦しみです。しかし、そんな苦しみの極みの中にあって、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と、イエスさまは父なる神さまへの絶対的な信頼を告白したのです。それはどのような信頼でしょうか。父なる神さまは必ずわたしをこの苦しみから救い出してくださる、必ず復活させてくださる、そのような信頼です。その信頼があったからこそ、イエスさまは苦しみの極みの中にあっても、安心して父なる神さまにご自身をゆだねることができたのです。

 

「ゆだねます」と言えない私たち

ただしよく考えてみると、これはイエスさまだからこそ言えたことなのだと思います。44-45節には、全地が暗くなり、神殿の幕が真ん中から裂けたとありますが、こういった出来事は、この世の終わりの裁きの時が来たということを意味しています。神さまに逆らう者は裁かれ、神さまに従う者は裁きを免れるというのが聖書の語る終わりの裁きの時ですけれども、そのようないわゆる最後の審判の時が十字架によって始まったということをこの箇所は教えています。つまり十字架というのは、神さまの怒り裁きを象徴している出来事なのです。

イエスさまは罪のない完全なお方でしたから、この裁きの後に父なる神さまは必ず自分を救い出し復活させてくださるという確信をもつことができました。だからイエスさまは安心して「ゆだねます」と言うことができました。しかし私たちはどうでしょうか。私たち人間は本来罪深い存在ですから、「ゆだねます」と言って神さまに自分の身を明け渡したら、神さまは義なるお方ですから、私たちの罪ゆえに私たちを裁かざるを得ないのです。裁判の場をイメージしていただくとよく分かると思いますが、重い罪を犯した被告が裁判長に対して「わたしの身をゆだねます」と言ったら、それはもう私を罰してくださいと言っているのと同じ意味になります。そのように言う被告は普通いません。私たちもそれと同じです。私たちは本来であれば、神さまに対して安心して「ゆだねます」などと言うことは決してできないほど神さまの前に罪深い存在なのです。そのことを私たちはよく覚えておく必要があります。

 

神の子とされた私たち

しかし、イエスさまの十字架によってその状況は変えられました。イエスさまは私たちの罪を全てその身に負ってくださり、私たちが本来であれば受けるべきだった裁きを全てその身に受けてくださったのです。私たちの罪はきよめられ、私たちは神さまの子どもとされました。だから私たちはもう裁判長の前でビクビクする必要はありません。私たちの目の前にいるのは怒りに満ちた裁判長ではなく、私たちを暖かい目で見つめる、私たちの天のお父さまだからです。この天のお父さまは、私たちを決して見捨てません。私たちを必ず最善の道へと導いてくださいます。だから私たちはどんな苦難の中にあっても、イエスさまのように、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言うことができるのです。イエスさまの十字架のおかげで私たちは初めて、安心して父なる神さまに全てをおゆだねすることができるのです。

今この時も、世界は先が見えない不安の中にあります。状況は悪化していく一方、明日はどうなっているのか、それさえ分からない状況です。苦難の時です。しかし、私たちは恐れと不安に支配される必要はありません。イエスさまの十字架によって贖われ、神さまの子どもとされた私たちは、この苦難が苦難のまま終わらないことを知っているからです。そのことを覚え、天のお父さまの真実な御手に信頼しつつ、「父よ、あなたの御手にゆだねます」と私たちの信仰を告白し続けていく1週間を送っていきましょう。

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