マルコ8:11-13「十字架のしるし」

 

この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません」。非常に厳しいイエスさまのことばです。イエスさまとパリサイ人たちとの間の議論はこれまでも多く記されていました。基本的にイエスさまは毎回厳しい態度をとられてきましたが、少なくとも彼らと議論はしてきました。彼らに悟ってほしいと願っておられたからです。しかし今回、イエスさまはついに議論することさえも諦めざるを得なかった、そのような印象を受けます。13節には「イエスは彼らから離れ…」とありますが、これはイエスさまが場所を移動されたということ以上の意味を含んでいます。実際、この後マルコの福音書を読んでいくと、イエスさまは今日の箇所を境に、パリサイ人たちから距離を置いて、弟子たちの教育により専念されるようになっていくということが読み取れます。「今の時代には、どんなしるしも与えられません」、イエスさまはパリサイ人たちの前でご自身のみわざを行うことを拒否されたのです。

 

「しるし」とは

一体イエスさまはなぜそこまでパリサイ人たちに対して厳しいのか。ここで私たちは、彼らが求めた「しるし」について考える必要があります。11節「すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである」。ここで言う「しるし」とは、脚注に「あるいは『証拠としての奇跡』」とあるように、イエスさまが神さまから遣わされたお方であるということの証拠です。おそらく彼らがイメージしていたのは、旧約聖書で神の人モーセが行った様々な奇跡であったり、預言者エリヤが天から火を降らせたような、そういった目に見える明らかな奇跡でした。「あなたが本当に神の人なら、その証拠を、『しるし』を今ここで見せてください」、パリサイ人たちはイエスさまにそう求めたのです。

これだけであれば、彼らがそれほど悪いことを言っているようには思えません。「せっかくなんだから、この機会にガツンと一発すごい奇跡を見せて、パリサイ人たちをギャフンと言わせればいいじゃないか」、私たちはそう思うかもしれません。実際に聖書全体を読んでいくと、「しるし」を求めること自体は決して悪いことではないということが分かります。神さまへの信仰をもつため、神さまの約束に確信をもつために「しるし」を求める、神さまはそれを許しておられます(Ⅱ列20:9-11、イザ7:11など)。

 

パリサイ人たちの問題

ではパリサイ人たちの問題はなんだったのか。彼らには二つの問題がありました。一つ目は、すでに多くの「しるし」が与えられていたにもかかわらず、それを悟らず、さらなる「しるし」を求めたということです。イエスさまはすでに多くのみわざをなし、ご自身がメシアであることの「しるし」を人々に現してきました。この直前にも、わずかなパンと魚をもって大群衆を養うという偉大な「しるし」を、一度だけでなく二度も現してきました。すでに「しるし」は十分与えられていた!しかし、彼らはそれを悟らなかったのです。それにもかかわらず、「『しるし』を見せろ!」と要求だけをしてくる。果たしてそのような人々に「しるし」を見せたところで、彼らはイエスさまを信じるのでしょうか。そうはならないことをイエスさまはよくご存知でした。いくら「しるし」を現したところで、その頑なな心が変えられなければ、彼らは決して悟ることはない。まず解決されるべきは、彼らの心の頑なさだったのです。

そしてその心の頑なさは、彼らのもう一つの問題にもつながってきます。彼らの二つの問題は、11節の最後にあるように、「イエスを試みようとした」ということです。聖書は一貫して、「神を試みる」という罪の重さを語っています(民14:22、詩78:18-20、詩106:14など)。「試みる」、これは言葉を換えれば、「テストする」ということです。テストというのは当然、出題者の側に正解の基準があります。テストを受ける側は、出題者の基準にそった答えを出さなければいけないわけです。そのように考えると、「イエスを試みようとした(=テストしようとした)」という罪の大きさがよく分かります。「自分たちが信じる神さまは、メシアはこういうお方であるはず」、自分自身の基準が先にあって、それにイエスさまが当てはまるかテストをする。結局、神は自分自身だということです。ある牧師はこの罪をこう説明しています。「試みた上で神を信じるのは、品物を買う前に品物を吟味するのと同じであります。よく吟味したという点で信頼感があります。けれども、その場合、神は人間の奉仕者であるにすぎないでしょう」。神を試みるのは、商品を品定めするのと同じ。そこに信仰の求めはありません。あるのは、自分に奉仕してくれる「神」を求める、傲慢な罪人の姿です。

 

「深いため息」

すでに与えられている「しるし」を悟らない心の頑なさ、そしてイエスを試みる傲慢の罪。イエスさまはそのようなパリサイ人たちに対して、「心の中で深くため息をついた」とあります。単なるため息ではなく、「深いため息」、これは新約聖書でこの箇所にだけ出てくることばです。この「深いため息」にはどのような感情が込められていたのでしょうか。「ここまできてなぜいまだに悟ろうとしないのか」「いつになったら神に立ち返るのか」。失望感、徒労感、嘆き、呻き。しかもこれはパリサイ人たちだけの問題ではないことをイエスさまはご存知でした。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか」。問題は「この時代」全体に及んでいました。これは何もイエスさまの時代のユダヤ人だけということではないでしょう。心の頑なさ、神を試みる傲慢の罪、これは時代を問わず、堕落した人間全体に及んでいる深刻な問題です。イエスさまはこの不信仰な世界を嘆いておられる。「なぜ悟ろうとしないのか」、イエスさまは今日も心の中で「深いため息」をついておられることでしょう。

 

十字架のしるし

では私たちはどうしたらいいのか。答えは単純です。すでに与えられている「しるし」に立ち帰ること、そこに現れている神の子キリストのお姿を仰ぎ見ることです。しかも驚くべきことに、私たちにはこの時すでに与えられていた「しるし」を超える、決定的な「しるし」が与えられています。その「しるし」とはなんでしょうか。十字架です。パウロも同じことを語っています。ともに開きましょう。コリント人への手紙第一122-23節です。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」。「十字架につけられたキリスト」、これこそ私たちが立ち帰るべきところです。この世界は当時のユダヤ人のように「しるし」を、ギリシア人のように「知恵」を要求するかもしれません。「イエスが本当に神だと言うなら、その証拠を示してくれ」「本当に神がこの世界にいるなら、それを証明してくれ」。あるいはすでに信仰者であっても、イエスさまを見失いそうになることがあるかもしれません。「他にも宗教はたくさんあるけど、本当にキリスト教でいいんだろうか」、確信がもてなくなる時がある。あるいは、「本当に神さまがいるなら、今ここで目に見える分かりやすい奇跡を起こしてください」、新しい「しるし」を求めたくなる時がある。私たちの信仰は揺らぎやすいのです。

しかしそこで覚えたいのは、私たちにはすでに決定的な「しるし」が与えられているということです。神の独り子が、私たちの罪のために十字架にかかり死なれた。罪の力に打ち勝ち、三日後によみがえられた。ここに神さまの決定的な「しるし」が現されたのです。この「しるし」を受け入れるか否か、それが私たちに問われていることです。そして、一度この「しるし」を受け入れた者は、何度でもこの「しるし」に立ち帰っていくのです。この世界のことばに惑わされそうになったとしても、イエスさまを見失いそうになったとしても、自分の信仰に自信がなくなったとしても、私たちはその都度この「しるし」に、「十字架につけられたキリスト」に立ち帰っていく。教会のシンボルが十字架であるように、私たちはどんなことがあっても、この「十字架のしるし」に立ち続け、この「しるし」を宣べ伝えていくのです。

 

結び

来週、私たちは2ヶ月ぶりの聖餐に与ります。聖餐で配られるパンとぶどう液、これはまさに「十字架につけられたキリスト」の目に見える「しるし」です。その目に見える「しるし」をもって、「十字架のしるし」への確信を新たにしていく、自分たちが立ち続けていく場所を確認する、それが聖餐です。神さまが私たちに与えてくださった恵みの時です。来週、再び会堂に集い、一つの聖餐に与り、十字架につけられたキリストこそが私たちの救い主であると、ともに告白していく。期待して待ち望んでいきたいと願います。

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