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ヨハネ20:11-18「復活の力」

序 イエス・キリストは復活された。これはイエス・キリストの地上での生涯を記している新約聖書の四つの福音書がすべて書き記していることです。ただ先週お話しした十字架もそうでしたが、復活に関しても、そこで語られている出来事は一つでも、福音書ごとにそれぞれ強調している点の違いや、視点の違い、細かな描写の違いがあります。関心のある方はぜひ読み比べてみてください。   最初の証人 ただしその中でも、四つの福音書すべてに共通していることもあります。その中の一つに、イエス・キリストの復活の最初の証人は女性だったということがあります。今日の箇所でピックアップされているマグダラのマリアを中心とする女性たちが復活の最初の証人となった。これは現代の私たちからするとそこまで驚くべき点ではないかもしれませんが、当時の時代状況においてはそうではありませんでした。 2000 年前の古代世界ですから、女性の社会的な地位は非常に低いものでした。特にこの証人ということに関して、女性は法廷などの場において、信頼に足る証人としては扱われていませんでした。女性は感情に流されやすく、騙されやすい。だから女性の証言は信頼に値しない。そういった論理がまかり通っていた時代だったわけです。実際にルカの福音書を見ると、イエス・キリストが復活したというニュースを女性たちが男性の弟子たちに伝えたところ、弟子たちは「そんなのたわごとだ」と、女性のたちの証言を信じようとしなかったという記録も残っています。それほどまでに女性の社会的な地位は低かった。 しかし福音書はそのような時代状況にあっても、女性たちこそが復活の最初の証人だったとはっきりと記しています。多くの学者は、この事実はこの復活の記事が単なる創作物語ではないことの証しだと説明します。もしこの復活の物語が福音書を書いた人物による創作なのであれば、決して復活の最初の証人を女性にはしなかったはずです。信じてもらえませんから。普通だったら男性にするはず。けれども四つの福音書はどれも女性たちこそが最初の証人だったと記している。それが実際に起こった事実でなければ、このような書き方は決してしない。だから復活の記事は信頼に値する。なるほどと思います。復活の出来事というのは多くの人にとって信じ難いものだと思いますので、このような説明の仕方は意味のあることだと思います。 また、それだけではあ

ヨハネ19:28-30「完了した」

序 イエスさまの復活をお祝いするイースターを来週に控え、今週私たち教会は「受難週」という一週間を過ごします。イエスさまがエルサレムに入られたこの日曜日、棕櫚の主日に始まり、最後の晩餐があった聖木曜日、そして十字架にかかられた金曜日、墓の中におられた土曜日と続きます。私たちキリスト教会はどんな時でもキリストの十字架の御業を告げ知らせるのですが、この受難週は特に、イエス・キリストが十字架で何をしてくださったのかを深く思い巡らす時間をもっていきたいと思います。   十字架の七つのことば 新約聖書には四つの福音書がありまして、いずれの福音書もイエスさまの十字架をそのクライマックスとして描いています。けれども、どの福音書も全く同じ描き方をしているわけではありません。もしそうだったら四つもある意味がなくなってしまいます。それぞれの強調点には違いがあります。それは特に、イエスさまが十字架の上で発したことばに表れています。マタイとマルコの場合、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか」というイエスさまの苦しみの叫びだけを記しています。十字架上での父なる神さまとイエスさまの関係の断絶が強調されています。ルカの場合は三つのことばが記されています。一つ目は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」ということば。二つ目は横にいる犯罪人に向かって言われた、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」ということば。そして三つ目は息を引き取る直前に言われた、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」ということば。父なる神への信頼が強調されています。マタイとマルコとは違う描き方をすることによって、十字架の上でのイエスさまのお姿がさらに豊かに浮かび上がってきます。 少し前置きが長くなりましたが、今日私たちが開いているヨハネの福音書はどうでしょうか。今日の箇所の前の 26,27 節には母マリアと愛する弟子に向けたことばが記されていますが、最後の最後のシーン、今日の箇所で記されているのはたった二つのことばです。「わたしは渇く」、そして「完了した」。どちらもギリシャ語では一つの単語です。非常に短い、しかし大変印象に残ることばがここに残されています。今日私たちは、「わたしは渇く」「完了した」、この二つのことばに込

マタイ6:9「神の子どもとしての祈り」

序 「自分がキリスト者であるのかどうか、どうしたらわかるのでしょう?」と問われたら、皆さんはどのように答えるでしょうか。色々な答え方があると思います。その中で、ウィリアム・ウィリモンというアメリカの著名な説教者は、大学生に問われた時、このように答えたそうです。「キリスト者とは、主の祈りを祈ることのできるひとたちのことです」。大変印象的な答えです。イエスさまが弟子たちに教え、その後も教会で大切にされてきたこの「主の祈り」。この「主の祈り」こそが、私たちがキリスト者であることの確かなしるし、証であると言うのです。はじめて彼のことばを読んだ時、私はいまいちピンと来なかったのですが、今回、「主の祈り」の冒頭部分、「天にいます私たちの父よ」ということばを味わう中で、段々とその意味が分かってきました。   神さまへの呼びかけ 「天にいます私たちの父よ」。これは呼びかけのことばです。この呼びかけというのは、それに続く祈り全体の方向性、祈りの姿勢を決定づけるとても重要な部分です。私たちは一体誰に向かって祈るのか。どのような者として祈るのか。祈りの先におられる方と、私たちとの間にはどのような関係性があるのか。 実際にクリスチャンの祈りを聞いていると、冒頭の呼びかけには様々なパターンがあることが分かります。ある時はシンプルに「神さま」と呼びかける。あるいは置かれている状況、祈りの内容に関連して、「慰め主なる神さま」、「平和の主なる神さま」、「万物の主権者なる神さま」、様々な修飾語をつけることができます。時には修飾語が多ければ多いほど、祈りが格式高く聞こえるということもあるように思います。 もちろん、どれも素晴らしい呼びかけです。それだけたくさんの呼びかけ方があるということは、神さまがそれだけ豊かなお方であるということです。神さまへの呼びかけには無限の可能性があります。そこに畏敬と信頼の思いがあれば、神さまは私たちの呼びかけを喜んで聴いてくださる。それは確かなことです。しかしそれはそれとして、今日私たちはその中でも特に、イエスさまが教えてくださった呼びかけについて考えていきたいと思います。イエスさまが教えた呼びかけ。それは「神よ」でもなく、格式高い修飾語を伴う呼びかけでもなく、「父よ」「お父さん」という親しみを込めた呼びかけでした。   「アバ」 この「父よ」「お父さん」という呼びかけは