マタイ6:9「神の子どもとしての祈り」

「自分がキリスト者であるのかどうか、どうしたらわかるのでしょう?」と問われたら、皆さんはどのように答えるでしょうか。色々な答え方があると思います。その中で、ウィリアム・ウィリモンというアメリカの著名な説教者は、大学生に問われた時、このように答えたそうです。「キリスト者とは、主の祈りを祈ることのできるひとたちのことです」。大変印象的な答えです。イエスさまが弟子たちに教え、その後も教会で大切にされてきたこの「主の祈り」。この「主の祈り」こそが、私たちがキリスト者であることの確かなしるし、証であると言うのです。はじめて彼のことばを読んだ時、私はいまいちピンと来なかったのですが、今回、「主の祈り」の冒頭部分、「天にいます私たちの父よ」ということばを味わう中で、段々とその意味が分かってきました。

 

神さまへの呼びかけ

「天にいます私たちの父よ」。これは呼びかけのことばです。この呼びかけというのは、それに続く祈り全体の方向性、祈りの姿勢を決定づけるとても重要な部分です。私たちは一体誰に向かって祈るのか。どのような者として祈るのか。祈りの先におられる方と、私たちとの間にはどのような関係性があるのか。

実際にクリスチャンの祈りを聞いていると、冒頭の呼びかけには様々なパターンがあることが分かります。ある時はシンプルに「神さま」と呼びかける。あるいは置かれている状況、祈りの内容に関連して、「慰め主なる神さま」、「平和の主なる神さま」、「万物の主権者なる神さま」、様々な修飾語をつけることができます。時には修飾語が多ければ多いほど、祈りが格式高く聞こえるということもあるように思います。

もちろん、どれも素晴らしい呼びかけです。それだけたくさんの呼びかけ方があるということは、神さまがそれだけ豊かなお方であるということです。神さまへの呼びかけには無限の可能性があります。そこに畏敬と信頼の思いがあれば、神さまは私たちの呼びかけを喜んで聴いてくださる。それは確かなことです。しかしそれはそれとして、今日私たちはその中でも特に、イエスさまが教えてくださった呼びかけについて考えていきたいと思います。イエスさまが教えた呼びかけ。それは「神よ」でもなく、格式高い修飾語を伴う呼びかけでもなく、「父よ」「お父さん」という親しみを込めた呼びかけでした。

 

「アバ」

この「父よ」「お父さん」という呼びかけは、イエスさまご自身が用いておられた呼びかけでした。ともに開いて確認したいと思います。マタイの福音書2639節(新57)です。「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。…』42節の二度目の祈りでも同じように「わが父よ」と祈っておられます。この「父よ」という呼びかけは、イエスさまが実際に話されていたアラム語で「アバ」と言いますが、後の教会はその「アバ」ということばをそのまま祈りの呼びかけのことばとして用いました。翻訳せずに、あえて「アバ」という元のアラム語のまま祈った。それだけイエスさまの祈りのことばが印象的だったということです。「アバ」、「父よ」ということばを聴くだけで、イエスさまが祈っておられた姿が思い浮かんだのだと思います。

なぜ「アバ」、「父よ」という呼びかけはそこまで印象的だったのでしょうか。その理由の背景は、旧約聖書にあります。旧約聖書を読んでいると、神の民、イスラエルが「神さまの子ども」と呼ばれている箇所があることに気づきます。代表的な箇所を一つ開きたいと思います。出エジプト記422-23節(旧104)です。「そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。…』」「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」。当時イスラエルの民はエジプトのファラオの下で奴隷にされていました。よその家、エジプトの家の奴隷だったわけです。しかし神さまは奴隷として苦しみ喘いでいたイスラエルの民を見て、「あなたたちはわたしの子どもだ!」と宣言してくださった。そしてモーセという人を用いてイスラエルの民をエジプトの家から解放し、救い出し、神さまの家に招き入れてくださった。それが出エジプトの出来事でした。

しかし、神の民イスラエルはその後どのような歩みを送ったか、旧約聖書にはその悲惨な記録が残っています。神さまの家に移されて、神さまの子どもとされたにもかかわらず、再び自ら神さまの家を飛び出て、よその家である異国の神々、偶像の家に移り住みました。父である神さまを裏切り、家出をした。イスラエルは自身の罪によって、自ら神さまとの親子の関係を、親子の絆を壊してしまったのです。

それで神の民イスラエルは幸せになったか。そのはずがありません。イスラエルは再び異国の神々、偶像の家で奴隷になってしまいました。自らが招いた結果です。再び苦しみに喘ぐ日々が始まった。その中で人々が待ち望んだのは、自分たちを救い出してくれる真の神の子なる王さま、メシア、キリストでした。もう一箇所開きたいと思います。2サムエル7:11-14です(旧550)。これは神さまが預言者ナタンを通してダビデ王に語られたことばです。11節後半から「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」。偶像の家で奴隷にされていた神の民。しかし、いつか神さまはご自身の子である王を遣わしてくださり、私たちを偶像の家から解放し、救い出してくださる。もう一度神さまの家に連れ戻してくださる。そのようにして旧約の民はメシア、キリストを待ち望むようになりました。

そしてその中でイエスさまはこの地上に生まれてきてくださいました。そしてなんと祈られたか。「アバ」「父よ」と祈られたのです。私たちを罪の家から救い出す真の神の子がついにこの世界に来てくださった。この方こそが私たちが待ち望んでいたメシア、キリストなのだ。だからこそ「アバ」「父よ」というイエスさまの祈りの呼びかけのことばは、人々の記憶に大変深く刻まれたのです。

 

神の家族の広がり

けれども、それだけではなかった。ここにさらなる驚きがあります。イエスさまだけが「アバ」「父よ」と祈られたのであればまだ分かります。神の子であるイエスさまですから。しかし、イエスさまは弟子たちに対しても、私たちに対しても「アバ」「父よ」と祈りなさいと教えたのです。これはどういうことか。当たり前のことですが、私たちはよその家のお父さんに向かって「お父さん」と呼びかけることはできません。「私はお前のお父さんじゃない」ということになるわけです。そこに親子関係がなければ私たちは神さまに対して「アバ」「父よ」と呼びかけることはできない。

であれば、なぜイエスさまは「アバ」「父よ」と神さまに呼びかけるように私たちに教えたのか。それは、イエス・キリストによって私たちが神の子どもとされたからです。ガラテヤ人への手紙4章を開きましょう(旧379)。8節にはこうあります。「あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来、神ではない神々の奴隷でした」。私たちはかつてイスラエルの民と同じで、自ら神さまの家を飛び出し、偶像の家の奴隷になっていた者でした。罪の支配の下にあった。けれども4節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」。これが聖書の語る福音、よい知らせです。旧約聖書で約束されていたように、神さまは神の子であるイエスさまを真の王、メシア、キリストとしてお送りくださり、私たちを偶像の奴隷の家から解放し、救い出し、神の家に、天のお父さまの家に迎え入れてくださった。そして神の子どもである証として聖霊さまを私たちの心に遣わしてくださった。「父よ」、この短い神さまに対する呼びかけのことばの中に、イエスさまがもたらしてくださった福音が凝縮されているのです。ですから、イエスさまが教えてくださった祈りは単なる祈りではありません。これは、神の子どもとしての祈りです。私たちは神さまの子どもとして、父なる神さまの御前に行くことができる。格式高いことばを使わずとも、「お父さん」と呼びかけ、安心して神さまと語り合うことができる。素晴らしい世界がここにあります。

 

「父よ」という呼びかけ

ただ中には、神さまを「お父さん」と呼ぶことに抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。父親という存在に苦々しい思い出をお持ちの方。「お父さん」ということばによって過去の辛い記憶が呼び起こされてしまう方。人間の父親像には限界があります。けれども安心してください。私たちの神さまは「天のお父さま」です。私たちを恐怖で縛り付けるような父親ではありません。大声と腕力で家族を支配するような父親でもありません。私たちの天のお父さまは、家出した子どもに自ら走って駆け寄り、抱きしめてくださる、愛と憐れみに満ちた父親です。地上の父親によって傷つけられた経験があったとしても、私たちは天のお父さまのもとで真の癒しを経験していく。そう信じましょう。

説教の冒頭で、「キリスト者とは、主の祈りを祈ることのできるひとたちのことです」ということばを紹介しました。主の祈りを祈ることができる、それは神さまを「天のお父さま」と呼ぶことができるということです。「天にいます私たちの父よ」と祈るたびに、私たちは自分たちが罪の家から神さまの家に移されたことを思い起こし、確信し、いよいよ天のお父さまである神さまのみもとに近づいていくのです。そして私たちは決して一人ではないということも最後におぼえたいと思います。私たちは一人っ子ではありません。「私たちの父」とあるように、私たちの周りには、同じように罪の家から救い出された兄弟姉妹がいます。たとえどんなに性格が違っても、そりが合わなくても、それでも私たちは心を一つにして「天にいます私たちの父よ」と祈ることができる。祈りによってキリスト者は、教会は天のお父さまのもとに一つにされていきます。そのことをおぼえながら、最後にともに心をあわせて「主の祈り」をともに祈りましょう。

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