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マルコ11:27-35「神の権威 人の権威」

  序 舞台は再びエルサレムの神殿の中です。 27 節「 彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て 」。祭司長たち、律法学者たち、長老たち、エルサレムを治めている錚々たる面々がイエスさまのもとにやってきます。イエスさまの敵が大集合したような、そんな場面です。この祭司長、律法学者、長老の三つのセットはマルコの福音書の中で以前にも一度出てきました。 8 章 31 節「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」。イエスさまがご自分の受難、十字架を予告された箇所です。ですから今日の 11 章までマルコの福音書を読んできた読者は、この三つのセットが出てきたということは、 8 章で予告されたイエスさまの受難の時がいよいよ始まっていくのだということを読み取ることができるわけです。   権威の問い 彼らはイエスさまに問いかけました。 28 節「 何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか 」。ここで彼らが言っている「これらのこと」は、この前に記されている神殿でのイエスさまの行為のことを主に指しています。「祈りの家」から「強盗の巣」に成り下がっていた神殿。そこでイエスさまは商人たちを追い出し、神殿がその役割を終えようとしていることを行動をもって表しました。ご自分こそが神殿の主であるかのように行動をされた。けれども当時実際に神殿を管理し治めていた祭司長、律法学者、長老たちはもちろん面白いはずがありません。そこで、一体何の権威によってそのようなことをしたのかとイエスさまに詰め寄ります。ただ彼らは何もイエスさまの背後にある権威を本当に知りたかったわけではありません。彼らがここで言いたいのは、自分たちこそが神殿での正統な権威者であって、お前のようなナザレ出身の田舎者にそのような権威はないということです。イエスさまに対する明確な非難でした。 するとイエスさまは答えます。 29-30 節「 イエスは彼らに言われた。『わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプ

マタイ6:11「神の国での満たし」

  序 今日は月に 1 回の年間目標に基づく説教です。はじめに、年間聖句をともに読みましょう。週報の一面をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』(ルカの福音書 11:1 )この箇所から「祈りに生きる教会」という年間目標を立て、特に「主の祈り」の学びを通して、祈りについて集中して御言葉に聴く 1 年間を過ごしています。 今日は「主の祈り」の第四の願いです。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。第一から第三の願いは神さまご自身のことに関する祈りでした。第一「御名が聖なるものとされますように」、第二「御国が来ますように」、そして第三、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」、目線を天からこの地上に向けた後、第四の願いではいよいよ私たち自身に関する祈りに移っていきます。   すべての必要を満たす主 「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。ここで「糧」と訳されているのは「パン」ということばです。イエスさまがおられた地方の主食です。日本風に言い直すと「日ごとの米を今日もお与えください」となるでしょうか。いずれにせよ、ここに来てイエスさまは私たちにとってごく身近な日常の必要に目を留めていかれます。 時折、聖書は霊の糧に関心があるのであって、肉の糧、物質的な必要はあまり重要でないということばを聞くことがありますが、それは聖書の価値観とは違います。聖書は旧新両約を貫いて、「パン」、肉の糧、物質的な必要に大きな関心を払っています。例えばヨセフとその家族はエジプトに来て飢饉から救われるという経験をしました。神さまは出エジプトを果たしたイスラエルの民をマナとうずらの肉をもって養いました。預言者エリヤは亡命中、烏と 1 人のやもめを通して食を得て命を繋ぎました。新約聖書も同じです。何よりもイエスさまご自身が、敵対する人々から「大食いの大酒飲み」と呼ばれるほど、食を楽しんでおられたお方でした。特にイエスさまは取税人や罪人たちとの食事をとても大切にされました。また五つのパンと二匹の魚をもって五千人を養うという奇跡も行われました。イエスさまは食事を、肉の糧をとても大切にしておられた。 なぜイエスさまは食事を大切にされたのでしょうか

伝道者の書3:1-11「神の時」

  序 今日私たちが開いているのは、旧約聖書の中の「伝道者の書」と呼ばれる書です。別の日本語訳聖書では「コヘレトの言葉」と呼ばれています。この書は 2020 年の暮れに NHK の「こころの時代」という番組でも取り上げられました。昨年 10 月から今年の 3 月にかけて再放送も行われたということで、ご覧になられた方もいらっしゃるかもしれません。 その「伝道者の書」、あるいは「コヘレトの言葉」の中でも特に有名なのが先ほど読んでいただいた箇所です。この箇所は一般的に「時の詩」と呼ばれます。 2020 年、アメリカのバイデンさんが大統領選挙で勝利した際、勝利演説の中でこの詩の一部を引用しました。クリスチャンに限らず、多くの人の心に響く不思議な聖書のことばです。   「時」と「時間」 「時の詩」と呼ばれるように、この詩のキーワードは「時」です。「時」とはなんでしょうか。ここで考えたいのは、「時」と「時間」の違いです。「時間」は分かりやすいものです。「時間」は時計で測ることができます。数えることができます。規則的に進んでいくものだからです。けれども規則的に進んでいく「時間」の節々に、突如現れるものがあります。それが「時」です。一度きりの特別な瞬間。あの時がなければ人生は変わっていたという瞬間。それが「時」です。「時間」であれば、人はある程度コントロールすることができます。予定を決めて、その通りに生きることができる。しかし「時」は違います。人は「時」をコントロールすることはできません。「時」は人の意志によらず、むしろ多くの場合人の意志に反して、突如目の前に降りてきます。 この詩が語っているのはそのような「時」のことです。この詩の中では、二つの相対する「時」が連続して語られます。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」。「泣くのに時があり、笑うのに時がある」。「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある」。「黙っているのに時があり、話すのに時がある」。「愛するのに時があり、憎むのに時がある」。誰しもが経験する「時」が描かれています。いくつかの表現はコメントが必要かもしれません。 2 節後半「植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある」。これは農作業のことですが、「植えた物を抜く」というのはおそらく戦争によって農地が荒らされる、もしくは奪われることを指しています。 5 節「石