伝道者の書3:1-11「神の時」

 

今日私たちが開いているのは、旧約聖書の中の「伝道者の書」と呼ばれる書です。別の日本語訳聖書では「コヘレトの言葉」と呼ばれています。この書は2020年の暮れにNHKの「こころの時代」という番組でも取り上げられました。昨年10月から今年の3月にかけて再放送も行われたということで、ご覧になられた方もいらっしゃるかもしれません。

その「伝道者の書」、あるいは「コヘレトの言葉」の中でも特に有名なのが先ほど読んでいただいた箇所です。この箇所は一般的に「時の詩」と呼ばれます。2020年、アメリカのバイデンさんが大統領選挙で勝利した際、勝利演説の中でこの詩の一部を引用しました。クリスチャンに限らず、多くの人の心に響く不思議な聖書のことばです。

 

「時」と「時間」

「時の詩」と呼ばれるように、この詩のキーワードは「時」です。「時」とはなんでしょうか。ここで考えたいのは、「時」と「時間」の違いです。「時間」は分かりやすいものです。「時間」は時計で測ることができます。数えることができます。規則的に進んでいくものだからです。けれども規則的に進んでいく「時間」の節々に、突如現れるものがあります。それが「時」です。一度きりの特別な瞬間。あの時がなければ人生は変わっていたという瞬間。それが「時」です。「時間」であれば、人はある程度コントロールすることができます。予定を決めて、その通りに生きることができる。しかし「時」は違います。人は「時」をコントロールすることはできません。「時」は人の意志によらず、むしろ多くの場合人の意志に反して、突如目の前に降りてきます。

この詩が語っているのはそのような「時」のことです。この詩の中では、二つの相対する「時」が連続して語られます。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」。「泣くのに時があり、笑うのに時がある」。「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある」。「黙っているのに時があり、話すのに時がある」。「愛するのに時があり、憎むのに時がある」。誰しもが経験する「時」が描かれています。いくつかの表現はコメントが必要かもしれません。2節後半「植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある」。これは農作業のことですが、「植えた物を抜く」というのはおそらく戦争によって農地が荒らされる、もしくは奪われることを指しています。5節「石を投げ捨てる」、これも戦闘行為のことでしょう。だとすると、「石を集める」とは戦争の終結のことを意味しています。7節「裂くのに時があり」、これは耐え難い悲しみを経験した時、あるいは喪に服する際に衣を引き裂くという当時の習慣を表します。反対に、「縫う」とは喪に服する期間の終了を指していると思われます。

いずれにせよ、ここで描かれているのは人の人生そのものです。人生、悲喜こもごも。嬉しい、楽しいこともあれば、悲しい、苦しい時もある。この詩を読む中で、私たちは自ずと自らの人生を振り返させられます。人生の節々の様々な出来事、「時」が思い起こされてきます。

 

定められた時

しかし、「伝道者の書」はこのように語ります。1節「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」。すべての「時」は神によって定められたものである。このことばを聴いて、どのように思われるでしょうか。運命論、宿命論のように感じる方もいらっしゃるかもしれません。人間の自由意志は一体どこにあるのか。様々な疑問が湧いてきます。

けれども、聖書はそのような疑問には答えず、一つ確かに言えることを語ります。11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」。すべての「時」は神によって定められたもの。それはすべて美しい。しかし、人は決してそれを見極めることができない。「神は人の心に永遠を与えた」とあります。「永遠」、これは人の一生すべての「時」と言い換えることができるかもしれません。旧約聖書が元々書かれたヘブル語で、この「永遠」ということばは「隠す」ということばに由来していると言われます。「永遠」とは、神によって隠された秘儀である。だから人は人生の「時」を見極めることができない、ということ。

これは私たちが人生を生きる中で実感することです。未来どころか、明日何が起きるのか、人間は誰も分かりません。時を見極めることはできない。それは現実という「時」も同じです。もちろん今この時に私たちは生きている。しかしほとんどの場合、今起きている現実の意味は分かりません。なぜこのようなことが起きるのか。一体なぜ。私たちにできるのは、現実を受け入れることだけです。意味など分からない。しかしそれでも、私たちは生きなければならない。訳も分からず生き続けなければならない。けれども生き続ける中で、ある時ふと過去を振り返ると、訳の分からなかった過去の出来事が単なる「時間」ではなく、「時」であったことに気づく。過去を振り返り、あれは神の「時」であったと悟ることがある。そのようなことがしばしば起こります。

 

「安心して苦しめ」

過去を振り返る中で、神の「時」を悟っていく。この人生の神秘を思い巡らす中で、ある一つのことばに出会いました。冒頭でもご紹介した、NHKの「こころの時代」という番組の中で、批評家・随筆家でカトリック信者でもある若松英輔さんが語ったことばです。お読みします。

 

「コヘレトの言葉」が私たちに囁きかけてくれるのは、「安心して苦しめ」ということなんです。「苦しめ、苦しめ」といっているわけでもなく「生きろ、生きろ」といっているわけでもない。安心して苦しみ、安心して生きよ、といってくれている気がします。

 

「安心して苦しめ」。すごいことばです。「時の詩」の半分は苦しみについてです。人生に苦しみはつきもの。神を信じたからといって、苦しみがなくなるわけではありません。神を信じれば苦しみはなくなると語る宗教はまやかしです。神を信じていても、いや、神を信じているからこそ、人は思い悩み、苦しむことがある。植えた物を抜かれ、崩され、投げ捨てられ、泣き、嘆き、戦いの中にある時、なぜこのようなことがと私たちは問う。愛する人を失う時、神よなぜですかと私たちは叫ぶ。その意味を見極めることはできません。訳が分からない。しかし、訳が分からずとも、すべては神から与えられた「時」であると信じる時、私たちは「安心して苦しむ」という神秘を経験します。神秘です。「苦しめ、苦しめ」ではない、「生きろ、生きろ」でもない、「安心して苦しみ、安心して生きよ」。神の声が聴こえてくる。訳の分からないこの人生を、訳の分からないこの世界を包んでいる、目には見えない大きな力に気づいていく。その力に支えられながら、私たちは「今この時」から「まだ見ぬ未来」へと一歩ずつ足を進めていくのです。

 

平和の時

最後にもう一度、聖書のことばに目を留めたいと思います。この「時の詩」は人の一生を表しているとお話ししました。そこで注目したいのは詩の始まりと終わりです。2節「生まれるのに時があり」、そして8節の最後「平和の時がある」。生まれた後、良いこと、悪いこと、嬉しいこと、悲しいこと、様々なことを経験します。しかし人生の行き着く先はどこか。それは「平和の時」であると伝道者は確信しています。「平和」とは単に争いがないことではなく、充足している、満たされているということです。人生、様々なことがある。そしてすべての人は必ず死を迎える。しかし死を迎える時、過去を振り返りながら、そこにあった神の「時」を悟り、満たされた思いの中でこの地上での生を終えていく。これが神を信じて生きるということです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。大きな悲しみ、苦しみに直面している時、この信仰を告白するのは難しいかもしれません。けれども、いつかこの地上での営みを終える時、人生を振り返りながら、「すべては神の時であった。神のなさることはすべて時にかなって美しい」、神さまをほめたたえることができるのであれば、それはどれほど幸いないことでしょうか。

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