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マルコ8:35-38「あなたを生かすいのち」

  序 先週は「自分を捨て、自分の十字架を負い、キリストに従う」ということについて、マルコ 8 章 34-35 節、特に 34 節を中心にみことばに聴きました。ただこの箇所は大変豊かな内容をもっていますので、今日私たちは改めて 35 節に注目しながら、 35-38 節を通してイエスさまが語っておられることにともに聴いていきたいと思います。   「いのち」とは 今日の箇所で鍵となることばは「いのち」です。「いのち」とは私たちを生かすものです。私たちの生を支えるもの、あるいは生そのものと言うこともできます。ここで問われているのは、私たちを本当の意味で生かす「いのち」とは何かということです。何が私たちを生かすのか。 35 節を改めてお読みします。「 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです 」。ここでは「いのち」ということばが二つの意味で使われています。まずは一つ目、この世の目に見える「いのち」です。「自分のいのちを救おうと思う者」、そして「わたしと福音のためにいのちを失う者」という箇所がそうです。この一つ目の意味はとても分かりやすいと思います。心臓と脳が動いていれば人は生きている。食べ物、衣服、家、お金があれば人は生きていくことができる。あるいはそういったものが全部揃っていれば、自分の人生は満たされている。それがこの世の目に見える「いのち」です。 しかしイエスさまは言います。「 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです 」。この世の目に見える「いのち」を救ったとしても、そこで失われる真の「いのち」がある。逆に、この世の目に見える「いのち」を失ったとしても、そこで救われる真の「いのち」があるということ。この二つ目の意味をもつ「いのち」こそが、人を生かす真の「いのち」なのだとイエスさまはおっしゃるのです。   人を生かす「いのち」 では、ここでイエスさまが言う真の「いのち」とは一体どのようなものなのでしょうか。そこで私たちが確認したいのは、聖書が記す人間の「いのち」の始まりです。ともに開いて確認しましょう。創世記 2 章です(旧 3 )。 7 節にこうあります。「 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとな

マルコ8:34-35「わたしに従って来たければ」

  序 聖書には様々なことばが記されています。私たちを励ますことば、勇気を与えることば、慰めることば、平安を与えることば、様々あります。ただそれだけではなく、聖書の中には私たちを戒めることば、私たちを鋭く刺し貫くようなことばもあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く」と新約聖書のヘブル書にはありますが、まさにその通りです。そして今日の箇所にはまさにそのようなことばが記されています。「 だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい 」。思わず「どきり」としてしまうイエスさまのことばです。   二つの生き方 ここでイエスさまは、ご自身に従う道とはどういうものであるかを明らかにしておられます。イエスさまに従うとは、一つ目、自分を捨てること、そして二つ目、自分の十字架を負うということ。この二つなくしてイエスさまに従っていくことはできないということです。 では自分を捨て、自分の十字架を負うとは具体的に何を意味しているのか。それが次の 35 節で明らかにされています。「 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです 」。ここでは究極的なことが言われています。「自分のいのちを救う」のではなく、「キリストと福音のためにいのちを失う」、それこそが自分を捨てて十字架を負うということの意味だと言うのです。「いのちを失う」ということは、現代日本に住む私たちにとっては、そこまでリアリティのないことばかもしれません。しかし私たちはこの背後に示されている二つの生き方に目を留める必要があります。一つ目は、自分のために生きる生き方です。自分の道は自分で決める、自分を信じ、自分の願うように生きる。現代社会はこのような生き方を称賛します。それに対する二つ目の生き方は、キリストと福音のために生きる生き方です。自分の道ではなく、キリストの道に従っていく。キリストを信じ、キリストが願われるように生きる。 キリスト者として生きる時、私たちはこの二つの生き方のどちらかを選ばなければならない状況に必ず遭遇します。必ずです。そのとき私たちはどちらの生き方を選ぶのか。この二つの生き方は決して相容れることはありません。自分のために生きながらキリストのために生きる、そのような生き方はあり得ません。自分自

ピリピ3:12-16「救いのレース」

  序 早いもので 8 月も終わり、先週から 9 月に入りました。今日は 9 月の第一主日ということで、年間目標に関連する聖句からともにみことばに聴いていきたいと思います。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「 主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない 」(申命記 31:8 )。今年はこの聖句から、「先立って進まれる主とともに」という目標をかかげて私たちは歩んでいます。その中で今日ともに考えていきたいのは、「先立って進まれる主とともに進む」ということです。私たち信仰者は洗礼を受けたらそこで終わりではなく、そこから主とともに進み続けるのだということを、このピリピのみことばを通して教えられていきましょう。   救いのレースを走る この箇所でパウロは信仰者の歩みを競争、レースにたとえています。言ってみれば、「救いのレース」でしょうか。信仰者というのは、賞を目指して救いの道をひたすら走るアスリートのような存在なのだということです。パウロはこのたとえを気に入っていたようでして、 1 コリント 9 章や2テモテ 4 章でも同じようなたとえを用いています。今年の夏はオリンピック・パラリンピックが行われていますが、パウロはもしかしたらスポーツ観戦好きだったのかもしれません。 ただここでまず考えたいのは、なぜ私たちは「救いのレース」を走る必要があるのかということです。イエス・キリストを信じた者はすでに救われている、それが聖書の教えではないのか。確かにそうです。聖書はそれを明確に語っています。私たちはそれを疑ってはいけません。けれども、「すでに」救われた私たちはもう完全無欠で、罪を全く犯さない人になったのかと言われれば、そうではないと答えざるを得ません。私たちの内には「いまだ」罪の性質が残っています。聖書はそれを「古い人」と呼ぶことがあります。私たちは完全ではない。パウロもそのことをよく分かっていました。 12 節前半「 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません 」、 13 節前半「 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません 」。私たちは「すでに」救われているけれども、「いまだ」救いの完成には至っていない。それが聖書の教えです。ですから信