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マルコ15:40-47「葬られたキリスト」

証人としての女性たち 今日の箇所でまず目に留まるのは女性たちの存在です。 40-41 節「 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上ってきた女たちがたくさんいた 」。マルコの福音書の中で、イエスさまに付き従う女性たちの一団の存在が明かされるのはここが初めてです。彼女たちは「弟子」とまでは言われていませんが、「イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった」とありますから、ガリラヤ時代からずっとイエスさまと行動をともにし、陰ながらイエスさまを支え続けていたのでした。 そんな彼女たちは十字架を「遠くから見ていた」とあります。愛するイエスさまが十字架の上で孤独に息絶えるのを遠くから見守ることしかできなかった。自分たちの無力さを感じていたことでしょう。けれども、それでも彼女たちはその様子をしっかりと見ていました。目も当てられないほどの悲惨なイエスさまのお姿。しかしそれでも遠くから「見ていた」。 ここには、男性の弟子たちとの対比が描かれています。当時は今以上に男性中心の社会です。イエスさまの十二弟子もみな男性でした。彼らがいつも前に出ていた。しかしいざイエスさまが十字架にかかる時、彼らはどこにいたか。みなイエスさまを見捨てて逃げていました。イエスさまが十字架の上で息絶える時、そこには誰もいなかった。一方、普段は陰に隠れて、マルコの福音書の中でも一切言及されることのなかった女性たちは、最後までイエスさまに従おうとした。 先ほど「見ていた」ということばを少し強調して言いましたが、このことばは 47 節にももう一度出てきます。「 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた 」。この「よく見ていた」は 40 節の「見ていた」と同じことばで、単に「見る」という以上に、「注意深く観察する」という意味をもったことばが使われています。これは何を意味しているか。彼女たちはイエスさまの死と葬りの「目撃者、証人」となったということです。いつも中心にいた十二弟子ではなく、女性たちこそがイエスさまの死と葬り、そしてこの後 16 章に出てくる復活の第一の証人となった!

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」

  序 「 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 」、「 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか 」。マルコの福音書に記されたイエスさまの最後のことばです。衝撃的な最後です。他の福音書を見ると、もっと穏やかなイエスさまのことばが記されています。ルカの福音書では「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」。ヨハネの福音書では「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」、「わたしは渇く」、そして「完了した」。これぞイエスさまの最後のことばにふさわしいと思えるようなことばが記されています。それに比べてマルコの福音書はどうか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。「イエスさまのこんな悲痛な叫びなんて聞きたくない!」「こんなイエスさまのお姿なんて見たくない!」そのように感じる方もおられるのではないでしょうか。一体なぜイエスさまはこんな悲痛な叫び声をあげたのか。なぜマルコの福音書は十字架上のイエスさまのことばとして、この衝撃的なことばだけを記したのか。なぜルカやヨハネのようにもっと穏やかなイエスさまのお姿を残さなかったのか。   神なき世界に来られた神の子 「 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 」。これは旧約聖書の詩篇 22 篇 1 節のことばです。ともに開きましょう。詩篇 22 篇 1 節(旧 952 )「 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか 」。この箇所を元のヘブル語で読むと「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ」となります。マルコの福音書のイエスさまのことばと少し違うことに気づかれたでしょうか。実はイエスさまが口にされたのは、先ほどお読みしたヘブル語の原文を、当時民衆の間で一般的に話されていたアラム語という言語にしたものでした。イエスさまは単に十字架の上でこの詩篇 22 篇のことばを「引用」したのではなく、いつも話しているアラム語を用いて、ご自身の奥底にあるたましいの声を、この詩篇のことばにのせて叫ばれたのでした。 この詩篇 22 篇、よく読んでいくと、十字架の出来事に重なる描写がたくさん出てきます。 6-8 節「 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です

マルコ15:16-32 (II) 「ともに十字架を負う」

序 先週はこの箇所から、ここに神の国の王としてのキリストのお姿が現されていること、そのキリストが王として治めておられる神の国に今私たちは生かされていることを学びました。その中で、マルコの福音書 10 章 45 節「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」という箇所もともに味わいました。 これまでも何度か申し上げて来ましたが、マルコの福音書は全体が十字架に向かっていくように構成されています。十字架の出来事をクライマックス、山の頂上として、あらゆる出来事がそこに向かっていくということです。ですから今日の十字架の箇所は単体でももちろん十分味わい深い箇所ですけれども、福音書でこれまで何が語られてきたかということを踏まえて、マルコ全体の文脈の中で読んでいくと、さらに深く十字架の出来事を味わうことができるようになります。その観点から、今日は二つのことに目を留めていきたいと思います。一つ目はイエスさまの両脇で十字架につけられた二人の強盗について、そして二つ目はイエスさまの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンについてです。   二人の強盗 まずは二人の強盗についてです。 27 節「 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた 」。ここで「強盗」と訳されていることばは「革命家」とも訳すことのできることばです。十字架というのは通常ローマ帝国への反逆者に科された刑でしたので、おそらくこの二人もローマ帝国に対する革命を企てていた過激派グループのメンバーだったと考えられます。ローマ兵からしたら、せっかく「ユダヤ人の王」を自称するイエスという男を十字架にかけるなら、その両脇で革命家二人も一緒に処分してしまおうという魂胆だったのかもしれません。 いずれにせよ、ここでマルコは「二人の強盗をイエスの両脇で十字架につけた」と書けばいいものを、わざわざ「一人は右に、一人は左に」という書き方をしています。なぜマルコはこんな書き方をしたのか。そこで思い起こされるのは、マルコ 10 章での出来事です。ともに開きましょう。マルコの福音書 10 章 35-40 節(新 89 )。「 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちが願うことをかなえていただきたいの

マルコ15:16-32 (I) 「王の姿」

  序 いよいよ十字架の場面、マルコの福音書のクライマックスがやってきました。先週の週報の予告では 15 章 16-20 節のみとしていましたが、準備をする中で、 32 節までを含めて一度に味わいたいと思いまして、今日は少し長い箇所を読んでいただきました。ただとても一度で語り切れる箇所はありませんので、今日と来週の 2 回に分けて、それぞれ違う角度からみことばに聴いていきたいと思います。   嘲られる王 今日の箇所では、ある一つの主題が一貫して描かれています。それは何か。王としてのイエスさまです。先週読んだ箇所でも、「あなたはユダヤ人の王なのか」とイエスさまに問うピラトの姿がありましたが、今日の箇所ではその主題がいよいよ鮮明になります。まずは 17 節、「 紫の衣を着せ 」。「紫」は古代から王家を象徴する色として用いられてきました。簡単に言えば、紫の衣というのは王、あるいは皇帝が着る服だったわけです。また続けて「 茨の冠を編んでかぶらせ、それから、『ユダヤ人の王様、万歳』と叫んで敬礼し始めた 」。 19 節では「 ひざまずいて拝んだ 」。 26 節を見ると、おそらく十字架の上につけられたであろうイエスさまの罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあったとあります。そして最後、 32 節では、祭司長たちと律法学者たちまでもがイエスさまのことを「 イスラエルの王 」と呼んでいます。一貫して王としてのイエスさまという主題が続いています。 しかし読めば明らかなように、そこにあるのは王に対する尊敬ではなく、その真逆、嘲りです。悪ふざけとも言えるでしょう。ローマ兵の立場からすれば、普段なかなか言うことを聞かずに抵抗ばかりしてくるユダヤ人に対して日頃からイライラしていたのかもしれません。そこに、「ユダヤ人の王」として訴えられ、十字架刑が決まった男がやって来た。日頃の鬱憤を晴らす絶好の機会です。わざわざ紫の衣を持ってきて、茨の冠を編むほどの手間をかけて、ナザレのイエスという男で遊び始める。やりたい放題です。 31, 32 節の祭司長たち、律法学者たちもそれに便乗して、皮肉たっぷりのことばを浴びせかけます。目を覆いたくなるような悲惨な光景です。   仕える王 その中で、イエスさまはどのように振る舞われたか。沈黙です。今日の箇所にイエスさまご自身のことばは一言も記されていません。どれほど嘲

マルコ15:1-15「理不尽な救い」(使徒信条No.5)

  序 今日は 7 月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです 」(ローマ人への手紙 10 章 9-10 節)。この聖句から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条に関連する聖書箇所から順番にみことばに聴いています。 今日はその 5 回目です。前回は「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」の部分を扱いましたので、今回はその次、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」の部分を扱います。そこで開いているのがマルコの福音書 15 章 1-15 節ですが、実はこの箇所、普段のマルコの連続講解説教のちょうど続きでもあります。特に計画してはいたわけではありません。一石二鳥というのは少し違うかもしれませんが、これも神さまの不思議な御業と思い、ともにみことばに聴いていきたいと思います。   かわいそうなピラト? 「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」。考えてみると、このピラトは大変不思議な存在です。使徒信条ではイエスさまを除いて、個人名は二つしか出てきません。「おとめマリア」と「ポンテオ・ピラト」です。マリアは分かります。イエスさまを産んだ重要人物です。しかしピラトはどうか。彼は他の箇所では「総督」と呼ばれることもありますが、言ってしまえばローマ帝国の一官僚です。福音書の最後の方に出てくるだけ。それなのに、使徒信条の中で大々的に取り上げられています。しかも、いい取り上げられた方ならまだしも、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しめられ」、最悪な取り上げられ方です。神の子キリストを苦しめた罪人の代表として 2000 年間名前を呼ばれ続けている。けれども実際に今日の箇所を読んでみると、ピラト自身はイエスさまに少し同情的だったことが分かります。もちろん立派な人物だったとは言えませんが、少なくとも、祭司長たちや長老たちや律法学者たちほどには悪意にまみれていません。まだ物事を冷静に捉えることができている。それなのに使徒信条は、「祭司長たち、長老たち、律法学者たちのもとで苦しめ