マルコ15:16-32 (II) 「ともに十字架を負う」

先週はこの箇所から、ここに神の国の王としてのキリストのお姿が現されていること、そのキリストが王として治めておられる神の国に今私たちは生かされていることを学びました。その中で、マルコの福音書1045節「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」という箇所もともに味わいました。

これまでも何度か申し上げて来ましたが、マルコの福音書は全体が十字架に向かっていくように構成されています。十字架の出来事をクライマックス、山の頂上として、あらゆる出来事がそこに向かっていくということです。ですから今日の十字架の箇所は単体でももちろん十分味わい深い箇所ですけれども、福音書でこれまで何が語られてきたかということを踏まえて、マルコ全体の文脈の中で読んでいくと、さらに深く十字架の出来事を味わうことができるようになります。その観点から、今日は二つのことに目を留めていきたいと思います。一つ目はイエスさまの両脇で十字架につけられた二人の強盗について、そして二つ目はイエスさまの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンについてです。

 

二人の強盗

まずは二人の強盗についてです。27節「彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた」。ここで「強盗」と訳されていることばは「革命家」とも訳すことのできることばです。十字架というのは通常ローマ帝国への反逆者に科された刑でしたので、おそらくこの二人もローマ帝国に対する革命を企てていた過激派グループのメンバーだったと考えられます。ローマ兵からしたら、せっかく「ユダヤ人の王」を自称するイエスという男を十字架にかけるなら、その両脇で革命家二人も一緒に処分してしまおうという魂胆だったのかもしれません。

いずれにせよ、ここでマルコは「二人の強盗をイエスの両脇で十字架につけた」と書けばいいものを、わざわざ「一人は右に、一人は左に」という書き方をしています。なぜマルコはこんな書き方をしたのか。そこで思い起こされるのは、マルコ10章での出来事です。ともに開きましょう。マルコの福音書1035-40節(新89)。「ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。』イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか。』彼らは言った。『あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。』しかし、イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。』彼らは『できます』と言った。そこで、イエスは言われた。『確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。』

ここに、マルコを通して神さまが私たちに伝えようとしておられるメッセージがあります。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」。ヤコブとヨハネの頭の中にあったのは、この世界がイメージする、キラキラ光り輝く栄光でした。エルサレムの宮殿で、金ピカの椅子に座り、ローマ帝国をついに追い出し、イスラエルの国を取り戻した王さま、イエス・キリストの両脇で、左大臣、右大臣として権力を振るう。それが彼らの願いでした。

しかしイエスさまは言われました。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません」。彼らは、神の国の王がどのようなお方か、神の国の栄光とはどんなものなのかを全く理解していませんでした。そしてイエスさまは言われました。「わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです」。備えられた人たちとは誰か。二人の強盗でした。神の国の王の戴冠式、十字架で、イエス・キリストの左と右にいたのは、名も知られない二人の強盗であった。当のヤコブとヨハネはどこにいたか。イエスさまを見捨て、逃げ去っていました。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」「できます」、自信をもって答えたにもかかわらず、彼らは逃げてしまった。神の国の何たるかを全く理解していなかった。

 

クレネ人シモン

しかし、弟子たちとは対処的に、キリストの十字架の何たるかをその場で経験した人物がいました。それがクレネ人シモンです。15章に戻りましょう。21節「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた」。ピラトがいた総督官邸からゴルゴタまで十字架を担いで歩かされたイエスさま。おそらく十字架の横木だけだったと思われますが、それでもかなりの重さです。加えて、イエスさまは一晩中鞭打たれ、痛めつけられ、疲弊し切っていました。重い十字架を到底運びきれそうにない。見かねたローマ兵は、通りかかった男に代わりに十字架を背負わせることにしました。シモンからしたらとんだとばっちりです。「無理やり背負わせた」とありますから、はじめは抵抗したのかもしれません。しかし相手はローマ兵、最終的には言うことを聞くしかありません。シモンは十字架を背負いながら、イエスさまの後をついて十字架への道を進んで行ったのでした。

「十字架を背負う」。ここでも思い起こされるイエスさまのことばがあります。開きましょう。マルコの福音書834節(新83)。「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい』」。「自分の十字架を負って」、15章の「十字架を無理やり背負わせた」と同じことばです。「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」、これは群衆と弟子たちに対する招きでした。しかしイエスさまに付き従っていた当の群衆と弟子たちは、いざイエスさまが十字架にかかろうとする時、どこにいたか。見捨てて逃げていました。けれども、一人だけこのイエスさまの招きに応えた人物がいた。偶然通りかかったクレネ人シモンです。もちろん、彼は自分からイエスさまの招きに応えたわけではありません。強制的でした。本人は嫌々だったでしょう。「なんで自分がこんなことをしなければいけないんだ」。しかし、本人が意図しないところで、イエスさまの招きが現実のこととして起こったのです。

シモンがその後どうなったのか、聖書に直接の記録は残されていません。しかし15章でマルコは興味深い書き方をしています。もう一度15章に戻って21節の最後。「彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた」。突然シモンの二人の子どもの名前が出てきます。なぜマルコはこのような書き方をしたのか。アレクサンドロとルフォスという人が当時の教会でよく知られた人だったからとしか考えられません。実際、ローマ人への手紙16章、手紙の最後の挨拶のところでパウロは「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく」と書いています。おそらく同一人物。クレネ人シモンの子、ルフォスはローマ教会のリーダーの一人になっていたということでしょう。だとすれば何が想定されるか。クレネ人シモンはこの十字架の出来事の後、イエスを主と信じるキリスト者になったということです。そして、自分があの十字架の日に経験したことを教会で証しし続けた。その結果、福音書に彼の名前が残されることになったのでしょう。

 

十字架につけられた主

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。十字架を負うとはどういうことでしょうか。「喜んで十字架を背負わせていただきます!」それは果たして本当に十字架なのでしょうか。十字架というのは無理やり背負わされるものです。イエスさまもそうでした。「どうかこの杯をわたしから取り去ってください」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。十字架はとても喜んで負えるものではありません。十字架は苦しいのです。誰も負いたくありません。

しかしどれだけ嫌でも、十字架を負わなければならないときがあります。通りかかっただけなのに無理やり十字架を背負わされる。あまりにも理不尽な苦しみを経験することがあります。十字架を背負って歩いている間、シモンの心の中は憤りで満ちていたでしょう。「何で自分がイエスという男のためにこんな苦しみを負わなければいけないのか」。それでも彼は前を歩くイエスさまについて行きました。いや、ローマ兵の手前ついて行くしかなかった。嫌々でした。しかし事実として、彼はそこでキリストの十字架の重さを知りました。そしてこの出来事の後、いつかは分かりませんが、彼は自分が無理やり背負わされた十字架の意味を知ることになりました。図らずも、イエスさまが負ってくださった十字架の重さを最もよく知るキリストの証人となったのです。

十字架を負うとはそういうことです。十字架を負っている最中、苦しみの中にある時、私たちに苦しみの意味は分かりません。いや、いつまで経っても意味が分かることはないかもしれません。シモンも、なぜあの時自分が十字架を無理やり背負わされたのか、その理由は生涯分からなかったでしょう。しかし彼は十字架を背負うことを通して、無理やり背負わされることを通して、十字架につけられたキリストに事実出会ったのです。光り輝く宮殿の中でではありません。賑やかで喜び溢れる祝宴の中ででもありません。理不尽な苦しみの中で、憤りに満ちた暗闇の中で、自分とともに、自分の前を歩いている、神の国の王イエス・キリストのお姿を見た。

私たちが十字架を背負う時、無理やり背負わされる時、目を上げると、そこには十字架の道を進んでいるキリストがおられます。私たちが十字架につけられる時、理不尽な苦しみにもがく時、横を見ると、そこに神の国の王であるキリストがおられます。私たちの主は、十字架を背負い、十字架の道を歩まれ、十字架につけられたお方。この十字架の主イエス・キリストを私たちは宣べ伝えていくのです。

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