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詩篇136篇「感謝の泉」

  序:現実とはかけ離れた詩篇? 今日は 12 月 26 日、クリスマスの翌日です。本来であれば主のご降誕をお祝いする「降誕節」は 12 月 24 日の夜から 1 月 6 日の直後の主日まで続きますので、今日も続けてクリスマスのメッセージに聴いていきたいところですが、今日は 1 年で最後の主日ということでもありますので、年末感謝礼拝として、主への感謝を改めておぼえて 1 年を終える、そのようなときとしていきたいと思います。 皆さんにとって、この 2021 年はどのような 1 年間だったでしょうか。何もかも順調にいったという方、いいこと悪いこと半々くらいだったという方、あるいは悪いことばかりだったという方、それぞれいらっしゃるかと思います。大きな喜びを経験した方もいらっしゃれば、病を患う、愛する方を亡くすなど、大きな痛みや悲しみを経験した方もおられることでしょう。 教会としてもこの 1 年間で様々なことを経験しました。 5 月後半と 8 月後半には緊急事態宣言が出され、在宅礼拝を行わざるを得なくなり、教会の交わりが大きな制限を受けました。しかしそのような中にあっても、 4 月には三浦綾子文学講演会、 12 月には子どもクリスマス会、クリスマス・イヴのつどいを開催することができ、多くの地域の方を教会にお招きすることができました。ですが 9 月後半、私たちは、長年教会に仕えてこられた、愛する森川信男兄を天に送るという大きな悲しみを経験しました。嬉しいこと、喜ばしいこともあれば、辛いこと、涙が出るような悲しいこともある。それが人の歩みというものです。 けれども先ほどお読みした詩篇 136 篇は、そのような浮き沈みがある私たちの人生の現実とはあまりにもかけ離れているように思えます。はじめから終わりまで 100% 感謝。苦しみや悲しみの叫びは一切ありません。朗読をしていてどこを読んでいるのか見失いそうになるほど、ひたすら「主の恵みはとこしえまで」「主の恵みはとこしえまで」と同じことばを繰り返している。一体なぜここまでの感謝があふれてくるのか。今年の自分には全く当てはまらない。共感できない。そのように感じる方もいらっしゃるかもしれません。   全体の構成 はじめに詩篇全体の構成を見ていきたいと思います。新改訳聖書では分かりやすく段落に分かれています。詩篇の冒頭、 1-3 節は「主

マタイ1:18-25「神が私たちとともにおられる」

  序 「 見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる 」。教会のクリスマスでは毎年のように朗読される有名な箇所です。「インマヌエル」は元々ヘブル語で、「イム」が「ともに」、「ヌー」が「私たちと」、そして「エル」が神。それが一つにつながって、「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」ということばになりました。クリスチャンにとっては聞き慣れたことばです。あるいは普段の祈りや会話の中でも、「神さまがともにいてくださるから大丈夫」と口にするように、この「インマヌエル」ということは私たちの信仰の根幹をなしていると言えると思います。   「インマヌエル」がない? ある意味「当たり前」になっているこの「インマヌエル」。では、そうではない世界をみなさんは想像したことがあるでしょうか。「インマヌエル」が当たり前ではない世界、神さまがともにいない世界を想像したことがあるでしょうか。 2000 年前、イエス・キリストが生まれる前の世界は、まさにそのような世界でした。神さまがともにいない世界だった。 何も初めからそうだったわけではありません。神さまはこの世界を創造されたとき、ともに喜び生きる存在として人間を創造されました。ご自身のかたち、神のかたちである人間とともに生きていきたい、それが神さまの願いでした。神さまご自身が誰よりも「インマヌエル」を望んでおられました。 しかし、それを阻んだものがあります。人間の罪です。神さまは聖なるお方です。ですからその聖なる神さまが人間とともにいるためには、人間も聖なるものである必要があります。そうでなければ、神さまとともにいることも、神さまに近づくこともできません。神さまの聖というのはそれほどすごいものだからです。ですから旧約聖書の中で神さまは繰り返し、繰り返し「聖なる者になりなさい」「聖なる者になりなさい」とイスラエルの民に語りかけ続けました。神さまはご自身の民と一緒にいたかったからです。ともに歩んでいきたかった。 しかしいくら神さまが熱心に語りかけようと、イスラエルの民はそれを無視し、偽りの神、偶像に走り続けました。自らを罪で汚し続けたのです。神さまは豊かな憐れみをもってそれを忍耐し続けました。繰り返し、繰り返し、「悔い改めてわたしのところに帰ってきなさい。もう一度一緒に歩んでいきたいんだ」と預言者たちを通

マタイ1:1-17「見捨てない神」

  序 今日は 12 月の第一主日ですので、はじめに年間聖句を皆さんで一緒に声に出して読みたいと思います。「 主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない 」(申命記 31:8 )。「先立って進まれる主とともに」、今日はこの年間テーマに関連して、そして第二アドベント礼拝ということで、アドベントにも心を向けつつ、マタイの福音書 1 章 1-17 節のみことばにともに聴いていきたいと思います。 先ほど司会の槌賀兄にこの箇所を朗読していただきました。大変な箇所をありがとうございました。この箇所は新約聖書の一番はじめに置かれている箇所です。一体この箇所がどれだけ多くの人の「聖書を読もう」という思いを打ち砕いてきたか、想像に難くありません。旧約聖書の場合は大抵出エジプト記の後半の幕屋の建設あたり、あるいはレビ記で躓いてしまう人が多いと思うのですが、新約聖書の場合は一番はじめにその関門が来ている。なぜもっと初心者にも易しい箇所からはじめなかったのか、せめてマルコとかルカとか、他の福音書を新約聖書のはじめにもって来た方がよかったのではないか。 けれども聖書は約 2000 年間、ずっとこの順序で伝えられてきました。決して理由なしにではありません。この一見無味乾燥に見える名前の羅列にも、実は大きな意味が込められています。それを今から紐解いていきたいと思います。   旧約聖書の頂点 はじめに 1 節。「 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図 」。ここではすでに結論的なことが言われています。まず「イエス・キリスト」という部分ですが、これはイエスさまのフルネームを紹介している訳ではありません。「イエス」は名前ですけれども、「キリスト」というのは称号です。ヘブル語でいう「メシア」、つまり「油注がれた者」、旧約聖書から約束されていた真の王、祭司、預言者という意味です。ですから「イエス・キリスト」というのはそれ自体で、「イエスこそがキリスト、メシアである」という信仰告白としての意味をもっているのです。 ではキリストであるイエスさまは一体どのようなお方なのか。それを説明しているのが「アブラハムの子、ダビデの子」という部分です。これは単純にアブラハムやダビデと血がつながっているという意味