マタイ1:1-17「見捨てない神」

 

今日は12月の第一主日ですので、はじめに年間聖句を皆さんで一緒に声に出して読みたいと思います。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。「先立って進まれる主とともに」、今日はこの年間テーマに関連して、そして第二アドベント礼拝ということで、アドベントにも心を向けつつ、マタイの福音書11-17節のみことばにともに聴いていきたいと思います。

先ほど司会の槌賀兄にこの箇所を朗読していただきました。大変な箇所をありがとうございました。この箇所は新約聖書の一番はじめに置かれている箇所です。一体この箇所がどれだけ多くの人の「聖書を読もう」という思いを打ち砕いてきたか、想像に難くありません。旧約聖書の場合は大抵出エジプト記の後半の幕屋の建設あたり、あるいはレビ記で躓いてしまう人が多いと思うのですが、新約聖書の場合は一番はじめにその関門が来ている。なぜもっと初心者にも易しい箇所からはじめなかったのか、せめてマルコとかルカとか、他の福音書を新約聖書のはじめにもって来た方がよかったのではないか。

けれども聖書は約2000年間、ずっとこの順序で伝えられてきました。決して理由なしにではありません。この一見無味乾燥に見える名前の羅列にも、実は大きな意味が込められています。それを今から紐解いていきたいと思います。

 

旧約聖書の頂点

はじめに1節。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」。ここではすでに結論的なことが言われています。まず「イエス・キリスト」という部分ですが、これはイエスさまのフルネームを紹介している訳ではありません。「イエス」は名前ですけれども、「キリスト」というのは称号です。ヘブル語でいう「メシア」、つまり「油注がれた者」、旧約聖書から約束されていた真の王、祭司、預言者という意味です。ですから「イエス・キリスト」というのはそれ自体で、「イエスこそがキリスト、メシアである」という信仰告白としての意味をもっているのです。

ではキリストであるイエスさまは一体どのようなお方なのか。それを説明しているのが「アブラハムの子、ダビデの子」という部分です。これは単純にアブラハムやダビデと血がつながっているという意味ではありません。アブラハム、そしてダビデという旧約聖書を代表する二人の人物に対する神さまの約束がイエス・キリストにおいて現実となった、成就したということを意味しています。実際に確認してみましょう。アブラハムに対する約束は何箇所かに記されていますが、ここでは創世記2217-18節を開きましょう(旧35)。「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」。アブラハムの子孫が「敵の門を勝ち取」り、「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」。悪に対する勝利がもたらされ、神さまの祝福が世界中に及ぶようになる。この約束がイエス・キリストにおいて成就したのだということです。

続いてダビデに対する約束ですが、サムエル記第二712節を開きましょう(旧551)。「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる」。続いて16節「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」。ダビデの子孫から、神の王国を確立する真の王が起こされる。この世界を治める偉大な王がやがて生まれてくる。ダビデの子、イエス・キリストはこの約束を成就するためにこの世界に生まれてきてくださったのです。

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」。ここまで見てきただけでも、この短い1節がどれだけ豊かな意味を含んでいるかをご理解いただけたと思います。マタイの福音書、そして新約聖書はその一番はじめで、アブラハム、ダビデに代表される旧約聖書の頂点に位置する存在としてイエス・キリストを描いている。ここで、旧約聖書と新約聖書の橋渡しがなされているのです。

 

立派な系図…?

そしてそれに続いて、イエスさまが本当にアブラハム、ダビデの子孫であることが系図を使って説明されます。系図というのは血統や家柄が重要とされる社会で非常に大きな意味をもつものでした。日本も同じだったと思います。今でも古い名家に行くと大抵の場合家系図があると思いますが、家系図というのはその人の血筋、家柄を保証するものでした。新約聖書の時代もそうです。ですから今日の箇所でも、イエスさまが正統な王家の血筋にあること、アブラハムとダビデの子孫であることを保証するために系図が用いられています。現代の私たちが思う以上にこの系図は大きな意味をもっていたということです。

そう考えると、ここにはさぞかし立派な系図が載せられていると思うのが普通です。何せイスラエルの王家の系図で、それを新約聖書の一番はじめ、一番目立つところにもってきているわけですから。しかし実際はどうか。この系図をよく見ていくと、普通であればとても大っぴらにできないようなものであることが分かってきます。まず目につくのは、この系図に登場する女性たちです。当時の系図は男性だけを記すのが一般的でしたから、ここに女性が登場するというだけでも驚きなのですが、それ以上に驚きなのが、ここに登場する女性たちにまつわるエピソードです。一人目は3節に出てくる「タマル」ですが、このタマルは夫が死んだ後、自分の子どもを何としても産むために、義理の父親であるユダのところに遊女、売春婦のふりをして入り、子どもをもうけた女性です。次に5節に出てくる「ラハブ」ですが、彼女もまた、イスラエルの民が約束の地に入る前、エリコの町で暮らしていた遊女でした。さらに同じ5節に登場する「ルツ」はモアブ人でした。このモアブ人というのは、その十代目の子孫でさえもイスラエルの民に加わってはならないとまで旧約聖書で命じられている、忌み嫌われた異邦人でした。そして6節には「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」とあります。本来であれば系図の中で一番輝いているはずの偉大な王様ダビデのところで、ダビデは不倫によって世継ぎをもうけたという大スキャンダルが暴露されています。

もちろん女性たちだけではありません。ダビデ王の後に記されている王様たちは旧約聖書の列王記や歴代詩に記録が残されていますが、その中の多くの王様は神さまに背き、異教の偶像を拝み、大きな罪を犯したと記されています。その結果何が起こったか。11節で言及されている「バビロン捕囚」です。神さまに背き続けた民は、バビロンという大国に攻め滅ぼされ、捕虜として外国に連れていかれる、そのような悲惨な経験をしました。そして13節のアビウデ以降に登場するのは、この箇所以外ではどの文献にも名前が出てこない無名の人々です。落ちるところまで落ちたアブラハムの子孫、ダビデの子孫の姿です。

あわれみの歴史

この系図を一体誰が人に見せたいと思うでしょうか。近親相姦によって生まれた先祖。売春婦によって生まれた先祖。憎むべき敵によって生まれた先祖。不倫によって生まれた先祖。神さまに背き続け、異国の捕虜になった先祖。王家から没落した無名の先祖。はたから見たら汚点にまみれた系図です。恥ずかしくてとても人に見せられたものじゃない。できれば隠しておきたい。この系図は、イスラエルの民の罪と恥の系図です。けれども聖書はそれを包み隠さずにそのまま記している。いや、女性の名前は普通なら書かないのに、そこをあえて、しかも福音書の一番はじめに書いている。明らかに強調しているとしか思えません。一体マタイは何がしたいのか。イエスさまの先祖の汚点を暴きたいのでしょうか。イスラエルの民の評判を落としたいのでしょうか。

そうではありません。ここに示されているのは、いかに罪にまみれていようと、ご自身の民を決して見捨てなかった神さまの豊かなあわれみ、そしていかに人間的には恥と思えるような歴史であっても、それを包み込んでご自身の計画を推し進められた神さまの大きな愛です。こんなに罪深い民と過去に交わした約束など捨て去ってもいいはずです。「アブラハムへの約束?ダビデへの約束?そんなの過去の話だよ」と言われても仕方ありません。けれども神さまはご自身の民がどんなに神さまを裏切ろうと、どんなに失敗を犯そうと、決して彼らを見放さなかった。見捨てなかった。諦めなかった。もちろん懲らしめはしました。バビロン捕囚はまさにそうでした。義なる神さまは罪を見過ごすことはなされません。イスラエルの民はどん底を味わいました。しかしそのどん底にあっても、神さまはご自分の民を決して忘れなかった。なんとかして救いたいと願われた。そこで神さまは、ご自身の独り子である、イエス・キリストをこの地上に遣わすことを決断されたのです。

ここに私たちは、先立って進まれる主のお姿を見ます。「わたしがあなたがたに先立って進む」と語ってくださる神さま。しかし私たちは時に神さまを見失い、道を逸れていってしまいます。多くの罪を犯します。多くの失敗をします。神さまはそのような私たちを見捨て、お一人で先に進んでいってしまうのか。ご自身の救いの計画を断念してしまうのでしょうか。そうではありません。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」、これが聖書の約束です。私たちは神さまの愛の大きさを見くびってはいけません。人間的に見てどんなに恥ずかしい、隠したい過去があろうと、私たちを救いたいと願われる神さまのご意志は決して揺らぐことはありません。神さまは一度交わされた約束を、一度救うと決めたご自身の民を捨てることは決してなさらない。先立って進まれる主は、必ず最後まで私たちに先立って進んでくださる。クリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生は、その神さまの愛の究極の現れです。そしてこのアドベント、私たちは先立って進まれる主が、その救いのご計画を完成させるために再びイエス・キリストを地上に送ってくださることを待ち望んでいきたい。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト」、このお方こそが私たちの救い主です。

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