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マルコ7:1-13「神のことばに生きる」

序:神のことばを台無しに 今朝は久しぶりにマルコの福音書からの説教になります。先ほど今朝の箇所を朗読しましたが、みなさんは聴いていて印象に残った言葉というのがあったでしょうか。今朝の箇所では、二つの言葉が対比されながら何度も繰り返されています。その二つの言葉とは、「人間の言い伝え」と「神の戒め」あるいは「神のことば」です。イエスさまはこの二つの言葉を対比させながら、パリサイ人・律法学者たちを何度も厳しく非難しています。 8 節「 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている 」、 9 節「 あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています 」、そして 13 節「 あなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています 」。厳しいイエスさまのお姿がここにあります。特に最後の言葉、「神のことばを無にしています」、ある翻訳はこれを「お前たちは神のことばを台無しにしている」と訳しています。「台無しにしている」、なんとも強くショッキングな言葉です。   パリサイ人たちの問題 一体何がそこまで問題だったのでしょうか。今朝の箇所にはその具体例が二つ記されています。一つ目は 1-5 節に記されている「汚れ」の問題です。この問題に関しては 14-23 節でさらに詳しく語られているので、次回、より詳しく見ていきたいと思います。簡潔に言いますと、パリサイ人たちは自分たちの「きよさ」を守るために、自分たちの生活から徹底的に「汚れ」、これはウイルスのことではなくて宗教的な「汚れ」のこと、特に異邦人や罪人を指しますけれども、そういった「汚れ」を遠ざけようとしていました。ただ外を歩いていると、どうしても異邦人とすれ違ったり、接触をもってしまったりしてしまいます。ですから食事を取る前には手をよく洗ってその汚れを落としたり、家に帰ったら全身を洗って汚れを落とすということをしていたのです。それは何も意地悪からそうしていたのではなく、それこそが彼らにとっての信仰の熱心さの証しだったわけです。 しかし、イエスさまはそれはただの「人間の言い伝え」であると一刀両断します。そして 14 節以降このように言うわけです。「パリサイ人たちは自分たちの外のものを『汚れている』『汚れている』と言うけれども、本当に汚れているのは人間の心自体なんだ。

創世記12:1-9「約束の地を目指して」

  序 2 月の教会総会で、今年度は原則毎月の第一主日に年間目標に関連する箇所から説教をすると申し上げましたが、先週はちょうどイースターでしたので、今月は代わってこの第二主日に年間目標に関する説教をいたします。年間目標、みなさん覚えておられるでしょうか。「先立って進まれる主とともに」ですけれども、今朝は創世記 12 章 1-9 節のアブラムの物語から、「先立って進まれる主」に信頼する歩みとはどのようなものなのかについて、みことばに聴いていきたいと思います。   アブラムという人物 まずは、アブラムについての基本情報を確認します。今朝の聖書箇所には含めませんでしたけれども、 11 章 27-32 節にはアブラムの背景情報が書かれています。その説明によると、アブラムはテラという人の子どもとして、カルデア人のウルという場所で生まれたとあります。これは今でいうイラク南部に当たる場所です。そして 31 節を見ると、アブラムも含めたテラの一族は、ある時ウルを離れて、ハランという場所に移り住みました。このハランという場所は今のトルコにある町で、今もそのまま地名が残っています。アブラムの時代にはメソポタミアを代表するような大商業都市だったようです。そしてそれに加えて、ハランは偶像礼拝に溢れている場所でもありました。当時メソポタミアの多くの地域では「シン」という月の神が崇められていたようでして、ハランにはその月の神シンの礼拝所があったようです。 その異教の地ハランで、唯一真の神さまがアブラムに現れたというのが 12 章です。 12 章 1 節「 主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい 』」。アブラムは元々唯一真の神さまを知っていたのか、そうであればいつ神さまと出会ったのか、なぜ神さまはアブラムを選んだのか、聖書は語っていませんので、詳細は分かりません。けれどもこの神さまとアブラムの出会いから、アブラムの信仰者としての人生、「先立って進まれる主」に信頼する歩みが始まっていったわけです。   主に従う困難 「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」。原文の語順では「あなたは行きなさい」ということばから始まる、単純ではっきりとした命令です。けれどもこの神さまの命令に

Ⅰコリント15:1-11「最も大切なこと」

  序 今日の説教題は「最も大切なこと」としました。「最も大切なこと」。「教会で最も大切なことはなんですか」と聞かれたら、みなさんはなんと答えるでしょうか。あるいは教会にあまり慣れ親しんでいないという方であれば、「教会で最も大切なこと」というと、どのようなことをイメージされるでしょうか。日曜日の朝に集まって礼拝をすること。清く正しく日々の生活を生きること。愛をもって生きること。聖書を読むこと。お祈りすること。賛美すること。色々と考えられます。どれも大切なことです。どれも教会が大切にしていることと言って間違いはありません。けれどもそれが「最も大切なこと」かと問われたら、どうでしょうか。「最も大切なこと」とは、「これがあれば教会は大丈夫だ」「これがあれば教会は存在し続けられる」とはっきりに言えることです。教会にとって、私たちにとって「最も大切なこと」とは一体なんでしょうか。 今朝私たちが開いている聖書の箇所は、まさにそのことをはっきり明確に教えています。 3-5 節、改めてお読みします。「 私があなたがたに最も大切なこととして伝えてきたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです 」。 キリストの死、「十字架」と、キリストのよみがえり、「復活」、これこそが教会で最も大切なこと、これを堅く信じていれば教会は大丈夫だと聖書は語ります。ただし「十字架」と「復活」、この両方をじっくり話していったら説教時間は 1 時間を超えてしまいますので、今日のイースター礼拝ではその中の「復活」について考えていきたいと思います。   信じがたい復活の事実 「復活」、これは十字架と並んでキリスト教信仰の生命線です。けれどもこの「復活」というのは、十字架と比べるとなかなか厄介です。今の時代、たとえキリスト教の学者であっても、聖書に書いてあるイエス・キリストの出来事が歴史的事実であることを信じない人は大勢います。けれども、 2000 年前、パレスチナの地方でイエス・キリストという人物が存在したということ、そしてその人物が十字架で処刑されたということは、クリスチャンであってもそうでなくても、ほぼ全ての人