Ⅰコリント15:1-11「最も大切なこと」

 

今日の説教題は「最も大切なこと」としました。「最も大切なこと」。「教会で最も大切なことはなんですか」と聞かれたら、みなさんはなんと答えるでしょうか。あるいは教会にあまり慣れ親しんでいないという方であれば、「教会で最も大切なこと」というと、どのようなことをイメージされるでしょうか。日曜日の朝に集まって礼拝をすること。清く正しく日々の生活を生きること。愛をもって生きること。聖書を読むこと。お祈りすること。賛美すること。色々と考えられます。どれも大切なことです。どれも教会が大切にしていることと言って間違いはありません。けれどもそれが「最も大切なこと」かと問われたら、どうでしょうか。「最も大切なこと」とは、「これがあれば教会は大丈夫だ」「これがあれば教会は存在し続けられる」とはっきりに言えることです。教会にとって、私たちにとって「最も大切なこと」とは一体なんでしょうか。

今朝私たちが開いている聖書の箇所は、まさにそのことをはっきり明確に教えています。3-5節、改めてお読みします。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えてきたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです」。

キリストの死、「十字架」と、キリストのよみがえり、「復活」、これこそが教会で最も大切なこと、これを堅く信じていれば教会は大丈夫だと聖書は語ります。ただし「十字架」と「復活」、この両方をじっくり話していったら説教時間は1時間を超えてしまいますので、今日のイースター礼拝ではその中の「復活」について考えていきたいと思います。

 

信じがたい復活の事実

「復活」、これは十字架と並んでキリスト教信仰の生命線です。けれどもこの「復活」というのは、十字架と比べるとなかなか厄介です。今の時代、たとえキリスト教の学者であっても、聖書に書いてあるイエス・キリストの出来事が歴史的事実であることを信じない人は大勢います。けれども、2000年前、パレスチナの地方でイエス・キリストという人物が存在したということ、そしてその人物が十字架で処刑されたということは、クリスチャンであってもそうでなくても、ほぼ全ての人が認めている歴史的事実です。キリストが十字架で死なれたということを否定する人はほぼいないと言っても間違いありません。宗教的な指導者が殺されるというのは私たちの理性でもよく理解できることだからです。

ではそれに比べて復活はどうでしょうか。ご存知の通り、「復活」はキリスト教を信じる上での大きなつまずきの石になっています。「十字架で死んだというのは分かる。でも死んだ人がよみがえるなんて信じられるわけがないじゃないか」、多くの人はそう言います。その気持ちはよく分かります。死人が生き返るというのは、現代科学的にはあり得ないことです。そして実際、おそらく私たちは誰も死者の復活をこの目で見たことがありません。そういうニュースを見たこともありません。死者の復活というのは、私たちの常識からかけ離れていることです。

 

心の中の復活…?

ある人たちは、キリストの復活を何とか信じてもらおうと、このようなことを言い始めました。「キリストが復活したというのは、肉体をもってということではなく、弟子たちの心の中で復活したということなんだ」。なるほど。たしかにそれならキリストの復活は受け入れやすくなります。現代科学を否定する必要もなくなります。キリストは心の中で復活した、とてもいいアイデアだなと思います。

しかし残念ながら、聖書はそのアイデアに対して明確に「ノー」と答えています。今朝私たちが開いている15章の4節を見ると、聖書はそこで「最も大切なこと」の一つとして「葬られたこと」を挙げています。キリストは十字架で死んだふりをしたのではなく、たしかに肉体をもって葬られた。そしてその肉体をもって復活したのだ、それが聖書の明確な主張です。そして5節以降では、キリストが様々な人に「現れた」とあります。ここで「現れた」と訳されていることばは、元のギリシャ語を見ると「見られた」ということばになっています。多くの人々はその目で復活したキリストを見た。キリストの幽霊ではなく、肉体をもったキリストを見たということです。しかも6節を見ると、そのことの証人は今もたくさんいると書かれています。キリストは肉体をもって復活した、それが聖書の明確な主張です。そしてそれが教会にとって「最も大切なこと」だと言うのです。「キリストは心の中で復活した」、それはたしかに現代人に復活を理解してもらうためにはいいアイデアかもしれません。けれども、聖書が語る「最も大切なこと」、肉体の復活を歪めてしまっては、教会が教会であり続けることはできません。

 

古代人だから…?

また、ある人たちはこう言います。「肉体の復活というのは古代人だから信じられたことであって、現代人に復活を信じろなんて無理な話しじゃないか」。なるほど、たしかに古代には今のような科学はなかったと考えると、その主張には一理あるように思います。けれどもそう言い切ってしまうのは、あまりにも古代人をなめているのではないかと思うのです。実際、15章の12節にはこうあります。「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか」。どうやら、この手紙の宛先であるコリントの教会には復活を信じない人たちがいたようです。それもそのはずです。彼らも私たちと同じように、死者の復活など見たことも聞いたこともなかったからです。現代科学うんぬん以前に、復活というのはそもそも古代からあり得ないことでした。

そして、それはキリストの弟子たちも同じでした。弟子たちは生前のキリスト本人から復活の話しを何度も聞かされていたにもかかわらず、それをすぐに信じることはできなかったと聖書には書いてあります。キリストとずっと一緒にいた弟子たちにさえ、復活はにわかに信じたがたいことでした。

長々と話してきましたが、要するにお伝えしたいのは、キリストの復活はそもそも「信じられない」出来事なのだということです。古代人であっても、現代人であっても、人は頭ではキリストの復活を理解することも、信じることもできません。キリストの復活というのは、それほど常識破りの、人の理性を超えた出来事だからです。

 

復活のキリストとの出会い

では、なぜ現にキリストの復活を信じている人がいるのでしょうか。なぜキリストの弟子たちは最終的に復活を信じたのでしょうか。なぜクリスチャンは2000年間にも渡ってキリストの復活を信じ、そのために命をかけてきたのでしょうか。なぜ、あなたはキリストの復活を信じているのですか。

その答えは、5-8節にあります。5節、キリストは「ケファに現れ、それから十二弟子に現れ」、6節「五百人以上の兄弟たちに同時に現れ」、7節「ヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れ」、8節「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」。なぜキリストの復活を信じるのか。それは、復活したキリストが現れてくださったからです。復活のキリストとの出会い、これが決定的な理由です。復活したキリストとの出会いによって初めて、私たちはキリストの十字架の死の意味を知り、そしてそのキリストが復活されて今も生きているということを心の底から信じることができるようになるのです。復活のキリストとの出会いなくしてまことの信仰は起こり得ません。逆に言えば、復活のキリストと出会うことによって、私たちの内に真の信仰が生まれるのです。

そして重要なのは、私たちの側からキリストを探しに行くのではないということです。「キリストが現れ」とあるように、キリストの側から私たちを探し、私たちに出会ってくださるのです。こんなに弱く、不信仰な自分にキリストは出会ってくださるのかと思われる方もいるかもしれません。けれどもこの手紙を書いたパウロは自らこう告白しています。9-10節前半「私は使徒の中で最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」。パウロは教会の大迫害者でした。クリスチャンを捕まえては牢に入れていく、とんでもない罪人でした。救いに値しない者です。しかし、復活のキリストはそのパウロにも現れてくださいました。キリストを信じる真の信仰を与えてくださいました。それが神さまの恵みです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」、パウロはそう自信をもって言うことができたのです。

私たちもそうではないでしょうか。クリスチャンが1%以下のこの日本で、なぜ私たちは自らマイノリティであることを選び続けているのでしょうか。なぜ私たちは常識では考えられないキリストの復活を信じるのでしょうか。それは、復活のキリストが私たちに出会ってくださったからです。初めはキリスト教なんて胡散臭いと思っていたかもしれない。宗教なんてとても私には…と思っていたかもしれない。自分には救い主なんて必要ない、そう思っていたかもしれない。けれども、復活のキリストが、復活して今も生きておられるキリストが出会ってくださったから、私たちは今ここにいるのではないでしょうか。復活のキリストとの出会い、それが私たちの人生を変える決定的な出来事になるのです。

 

彼が生きているから

最後に、一つの賛美歌を紹介して終わりたいと思います。英語の “Because He Lives” 、直訳すると「彼が生きているから」という賛美歌です。私たちが普段使っている「教会福音賛美歌」にも載っていますが、今回は私が英語から直接訳したものをご紹介したいと思います。

 

「彼が生きているから」

神は独り子を送られた。人々は彼をイエスと呼んだ。

彼は愛のため 癒しのため 赦しのために来られた。

私の罪の赦しを得るために生き 死なれた。

空の墓は 私の救い主が生きていることを証している。

 

彼が生きているから 私は明日を向ける。

彼が生きているから 恐れはすべて消え去った。

彼が将来を支えていることを私は知っている。

ただ 彼が生きているから この人生には意味がある。

 

 「ただ 彼が生きているから この人生には意味がある」。ここまで確信をもって言い切れる出会いがキリストの他にあるでしょうか。キリストの復活を信じるということ、それはキリストが今も生きておられるという信じることです。十字架で死なれたキリストは、復活し、今も生きておられる。だから私たちは今日も、明日も、この人生を生きていくことができるのです。

説教の初めに、「教会で最も大切なことはなんですか」と問いました。その問いに改めて答えましょう。最も大切なこと、それは十字架で死に、復活された、イエス・キリストと出会うことです。

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