投稿

9月, 2020の投稿を表示しています

マルコ3:1-6「いのちを活かす神の国の働き」

  序 先週に続き、今日の箇所でも「安息日」がテーマになっています。ユダヤ人にとって安息日というのはそれほど大切なものでした。先週私たちは、安息とは自分の働きをやめ、自分の生活といのちのすべてを神さまに委ねることによって得る真の平安であること、そして神の国にはそのような真の安息があるということを確認しました。イエスさまによって神の国がもたらされた今、私たちは真の安息の中を日々生かされながら、終わりの時にもたらされる永遠の安息を待ち望む歩みを送っているのです。   安息日とは また、先週私たちは当時のユダヤ人がどのように安息日を守っていたのかということも確認しました。彼らは安息日を何としても守るために、様々な細かい規定を定めて、自らを掟でがんじがらめにしていたのでした。そこで今日私たちはまず、そもそも旧約聖書は安息日に関して何と言っているのかを初めに確認したいと思います。旧約の中には安息日に関する律法がいくつかありますが、やはり一番大事なのは十戒の規定です。共に開いて確認したいと思います。出エジプト記 20 章 8-11 節です(旧 135 )。ここで特に注目したいのは 11 節です。ここでは神さまの創造の御業が安息日を守る根拠とされています。人は自らの働きをやめ、神さまの御業に思いを向けることによって、自分、そして世界の全てが神さまの御手の中にあることを思い起こし、その神さまに全てを委ねることによってこそ真の安息が得られるということを身をもって経験していく。ここでは先週私たちが確認したような安息日の目的が示されています。 ただ、旧約の中にはもう一箇所、十戒が記されている書があります。こちらも共に開きましょう。申命記 5 章 12-16 節です(旧 324 )。前半部分は出エジプト記の十戒とほとんど変わりませんが、後半は少し違った観点から安息日の目的が示されています。注目したいのは 14 節の終わりからです。「 そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。 」この申命記の十戒では、自らが安息を得ることだけでなく、他の人、特に弱い立場にある人々にも安息をもたらすことが目的とされています。その理由は 15 節に書いてあります。「 あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたを

マルコ2:23-28「真の安息」

  安息日規定 今日の箇所はある安息日に起きた出来事について記しています。ただしこの出来事、実際に想像してみるとなかなかショッキングな光景に思えます。田舎臭く、どこか薄汚れていて、空腹に喘いでいるおじさんたちが、通りすがりの他人の畑に入っていき、寄ってたかって麦の穂を摘み、それを喜んで食べている。現代だったら通報されてもおかしくない状況です。けれども実はこの弟子たちの行為は、当時のユダヤでは律法に適ったものとして一般的に認められていました。これは申命記にある律法なのですが、そこでは他の人の畑の麦を鎌で刈ってはいけないけれども、手で摘む程度なら自由にしてよいということが書かれています。おそらく貧しい人のために定められた律法だと思いますが、それはこのイエスさまの時代でもしっかりと守られていました。ですので、今日の箇所で問題となっているのは、弟子たちが麦を盗み食いしていたということではなく、それを安息日に行っていたということです。 ここで安息日の制度について少し確認しておきましょう。聖書の中で言う安息日とは、今のユダヤ教もそうですが、週の最後の日、金曜日の日没から土曜日の日没までの 1 日のことを指しています。そして十戒の第四戒には「安息日に仕事をしてはならない」とありますが、ユダヤ人たちはその掟を確実に守るために、そこで言う「仕事」とは何なのかというのを細かく規定していました。そのリストには 39 の行為が書かれているのですが、中には「爪を切ってはならない」、「二文字以上書いてはならない」といったものがあるようです。そしてそのリストの 3 番目にあったのが「刈り入れ」の禁止でした。麦を手で摘むのは刈り入れに入るのかなと少し疑問に思いますけれども、熱心に厳格に律法を守っていたパリサイ派の人々の基準からすれば、弟子たちの行為は明らかな律法違反でした。ですからパリサイ派の人々は弟子たちの師匠であるイエスさまに対して、「なぜあなたはこのような律法違反を見過ごしているのか」と迫ってきたというのが今日の箇所です。 ここで少し余談ですけれども、実は現代でも熱心なユダヤ教徒はこういった安息日規定を厳格に守っています。私が以前イスラエルを訪れた際に特に印象に残っているのはエレベーターです。イスラエルの建物には大体 2 種類のエレベータが並んでありまして、一つは普通のエレベーター、もう一つ

マルコ2:18-22「福音の喜びに生きる」

  「ウィズ・キリスト」 「新しい生活様式」ということが社会で言われるようになって、もうだいぶ日が経ちました。身体的距離の確保であったり、マスクの着用であったり、三密の回避であったり、そういった「新しい生活様式」は私たちの習慣としてそれなりに身についてきていると思います。この「新しい生活様式」というのはみなさんご存知の通り、いわゆる「ウィズ・コロナ」、コロナと共に生きていくという新しい時代の生活の仕方として示された基準です。それが政府から提示されるということには賛否両論ありますが、いずれにせよ、新しい時代にはそれにふさわしい新しい生き方があるというのは私たちがみな納得するところだと思います。 それが今日の箇所と何の関係があるのかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は今日の箇所で示されているのは、キリストが共にいる新しい時代、言ってみれば「ウィズ・キリスト」の時代の新しい生き方とはどういうものなのかということです。キリストが共におられる今、私たちはどのように生きるべきなのか。共に御言葉に聴いていきたいと思います。   古い生き方 「ウィズ・キリスト」の時代の新しい生き方を知るためには、まずそれ以前の古い生き方はどのようなものだったのかを知る必要があります。それを示しているのが 18 節です。「 さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。』 」ここでは「断食」というものが古い生き方として挙げられています。「断食」というのは皆さんご存知のように、ある一定の期間食を断つという行為です。断食の習慣は大体どの宗教にもあるようですが、それは当時のユダヤ教も同じでした。特にパリサイ派の人々は非常に熱心に断食の取り組んでいたようで、なんと週に 2 回、月曜日と木曜日に断食を行うのが敬虔な信仰者の証であるとされていたようです。そしてそれはヨハネの弟子たちも同じでした。彼らの師匠であるバプテスマのヨハネはいなごと野蜜だけを食べるという禁欲的な生活を送っていましたから、彼らはそんな師匠の生き方に倣うために、パリサイ派の伝統を取り入れて、同じように断食を習慣的に行なっていたと考えられます。 ですがここで大事なのは、断食が何