マルコ2:18-22「福音の喜びに生きる」

 

「ウィズ・キリスト」

「新しい生活様式」ということが社会で言われるようになって、もうだいぶ日が経ちました。身体的距離の確保であったり、マスクの着用であったり、三密の回避であったり、そういった「新しい生活様式」は私たちの習慣としてそれなりに身についてきていると思います。この「新しい生活様式」というのはみなさんご存知の通り、いわゆる「ウィズ・コロナ」、コロナと共に生きていくという新しい時代の生活の仕方として示された基準です。それが政府から提示されるということには賛否両論ありますが、いずれにせよ、新しい時代にはそれにふさわしい新しい生き方があるというのは私たちがみな納得するところだと思います。

それが今日の箇所と何の関係があるのかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は今日の箇所で示されているのは、キリストが共にいる新しい時代、言ってみれば「ウィズ・キリスト」の時代の新しい生き方とはどういうものなのかということです。キリストが共におられる今、私たちはどのように生きるべきなのか。共に御言葉に聴いていきたいと思います。

 

古い生き方

「ウィズ・キリスト」の時代の新しい生き方を知るためには、まずそれ以前の古い生き方はどのようなものだったのかを知る必要があります。それを示しているのが18節です。「さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。』」ここでは「断食」というものが古い生き方として挙げられています。「断食」というのは皆さんご存知のように、ある一定の期間食を断つという行為です。断食の習慣は大体どの宗教にもあるようですが、それは当時のユダヤ教も同じでした。特にパリサイ派の人々は非常に熱心に断食の取り組んでいたようで、なんと週に2回、月曜日と木曜日に断食を行うのが敬虔な信仰者の証であるとされていたようです。そしてそれはヨハネの弟子たちも同じでした。彼らの師匠であるバプテスマのヨハネはいなごと野蜜だけを食べるという禁欲的な生活を送っていましたから、彼らはそんな師匠の生き方に倣うために、パリサイ派の伝統を取り入れて、同じように断食を習慣的に行なっていたと考えられます。

ですがここで大事なのは、断食が何を目的として行われていたのかということです。断食というのは食事を断つということですから、当然お腹が空いて苦痛を覚えるわけです。ですがその苦痛が大切な要素でして、その肉体的な苦痛を通して、自らの罪を深く自覚し、嘆き、悔い改め、贖いを求めて神さまの御前に出ていくというのが断食の目的でした。つまり断食というのは、罪の嘆きと悔い改めを表す行為だったわけです。そういった理由から、パリサイ派に代表される当時の敬虔な信仰者たちはみな、その信仰の証として断食を行なっていました。ですから、熱心に神の教えを説いていたイエスさまの弟子たちが断食を行なっていないというのは、人々の目に不思議なこととして映ったようです。ですから人々は18節でイエスさまに尋ねました。「パリサイ派の人々だけでなく、あなたと似たような活動をしていたあのバプテスマのヨハネの弟子たちでさえも断食をしているのに、どうしてあなたの弟子たちは断食をしないのですか。あなたたちは本当に熱心な信仰者なんですか」。そんな批判まじりの疑問を人々はイエスさまにぶつけたのです。

 

新しい生き方

それに対してイエスさまはどう答えられたか。19節「イエスは彼らに言われた。『花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。』」疑問に対して疑問で返してくる。しかもたとえを用いて。何とももどかしく感じるイエスさまの答えですが、このように答えることを通して、イエスさま人々に自分自身の生き方を問い直すように迫りました。

たとえの舞台は婚礼の場です。婚礼というのは喜びの場ですので、そこで断食をするのはふさわしくないでしょうということ。これは誰もが納得する当たり前のことですが、イエスさまは今まさにそのようなことが起きているのだと語られたのです。旧約聖書ではいくつかの箇所では、将来訪れる救いの時が婚礼の場として描かれています。神さまが花婿としてこの地上に来て、ご自身の選びの民を花嫁として迎えてくださる。それが旧約聖書の描く救いの情景の一つでした。それが今この時、イエスさまを通して現実になっている。神の子イエス・キリストがご自身の民を救うために花婿としてこの地上に来られた。今が救いの時、喜びの時。だから私の弟子たちは断食をしない、いや、むしろできないんだ。彼らは救い主と共にいる喜びに今溢れているのだから。イエスさまは婚礼のたとえを用いてそのように語られたのです。

ただしここで注意したいのは、イエスさまは決して断食という行為そのものを批判しているわけではないということです。実際に荒野の誘惑の時にはイエスさまも断食をしたとマタイの福音書には書いてあります。また使徒の働きにも、初代教会のキリスト者たちは祈りに集中するために断食を行なったという記録があります。そして今日の20節でも、花婿が取り去られる日、つまり十字架の日には弟子たちも断食をするとイエスさまご自身が仰っています。断食自体は決して悪いものではありません。ただここでイエスさまが指摘しているのは、イエスさまによって新しい救いの時代が始まったということ、そして新しい時代に生きる者は断食という古い時代の習慣に縛られるのではなく、喜びを原動力とした新しい生き方へと招かれているのだということです。

先ほど、断食というのは罪の嘆きと悔い改めを表す行為だと申し上げました。確かにバプテスマのヨハネの時代までは、闇が世界を覆っていました。自分たちの罪の現状、そして世界にはびこる悪の現状に嘆かざるを得なかった。闇と嘆きの時代です。しかし、イエスさまがこの地上に来られた今、時代は変わりました。闇と嘆きの時代から、光と喜びの時代へと世界は変わったのです。それなのになぜあなたたちはまだ闇の時代に生きているかのように断食を強制するのか。光の時代が来た今、救い主が共にいる今、私の弟子たちが喜びに溢れているのは当然ではないか。イエスさまはそう仰っているのです。

 

生き方の変革

ここに私たちは、闇の時代の古い生き方から光の時代の新しい生き方への招きを聴きとることができます。21-22節に記されている二つのたとえでは、そのような生き方の変革の必要性が語られています。21節で言われているのは、古い布に穴が空いているとして、そこにまださらしていない新しい布を継ぎ当てると、次に洗濯をした時に新しい布は縮んでしまうので、周りの古い布はそれに引っ張られて破れてしまうということです。そして22節で言われているのは、新しいぶどう酒はまだ発酵しきっていないので、あまり伸縮性のない古い皮袋に入れてしまうと、ぶどう酒が発酵する中で膨張して袋を破ってしまうということです。これが断食の話と何の関係があるのかと一見思いますが、この二つのたとえで言われているのは要するに、新しい時代に生きている者が古い時代の生き方を続けていれは必ず破綻を来してしまうということです。新しい時代に生きている者は、それにふさわしい新しい生き方がある。ではここで言われている「古い生き方」、そして「新しい生き方」とはなんでしょうか。先ほど申し上げたように、「古い生き方」とは嘆きに支配された生き方、そして「新しい生き方」とは喜びを原動力とした生き方です。

私の神学校時代の友人はある時このようなことを言っていました。「クリスチャンってネガティブな人が多くない?」私はそれを聞いて、確かにそう感じる面はあるなと思いました。もちろん性格によるとも思いますが、それ以上に考え方そのものがネガティブに陥りやすい傾向をもっている人が多いのではないかと思ったのです。それはなぜだろうと考えてみました。クリスチャンは神さまの素晴らしさ、偉大さを知っている分、自分の罪深さもよく知っていますから、何かしていても「いや、こんな自分じゃダメだ。こんな自分じゃ神さまに喜んでもらえない」と自分の罪深さをいつも嘆き、自分を必死に打ち叩いて、自分を苦しめることによって神さまに喜んでいただこうとする。真面目で熱心なクリスチャンであればあるほど、そういう風に自分をどんどん追い詰めてしまうということが時折あるように思います。もちろん、罪の現実に嘆き悲しむことは大切なことです。イエスさまも「悔い改めなさい」と明確に語っています。けれどもそれは決して、嘆きに支配された生き方をしなさいということではありません。罪の現実に嘆き続けるだけで終わる人生を送りなさいということでもありません。そうではなく、罪の現実を嘆き悲しみ、悔い改め続けながらも、その罪の世界のただ中に、そして罪人の頭であるこの私の隣に来てくださったイエスさまに目を向けなさいということです。その時、私たちの中には自ずと喜びが湧き上がってきます。私たちは自分の身を必死に打ち叩いて神さまを喜ばせるのではありません。神さまの方から私たちに喜びを届けてくださるのです。これこそがイエスさまのもたらした真の福音、「喜びの知らせ」です。真の喜びは、自分で頑張って作り出すものではなく、共におられるイエスさまに目を向ける時にこそ湧いてくるものなのです。

20節にあるように、イエスさまは十字架にかかられ、一度は私たちから取り去られたかのように見えました。そういった意味で、十字架は闇の時代の頂点だったとも言えます。けれどもその三日後、イエスさまは復活されました。闇を打ち破り、新しい光の時代を確立してくださったのです。そしてその後天に昇られたイエスさまは、今も聖霊を通して私たちの心の内に住んでくださっています。そのイエスさまに私たちは目を留め続けていきたいと願います。そしてイエスさまが共にいてくださる喜びを原動力に、神さまに仕える日々の歩みを送っていきたいと願います。福音の喜びに生きる、それがキリストによってもたらされた新しい時代、「ウィズ・キリスト」の時代の生き方です。

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