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ルカ1:26-38「救いのご計画の中で」

  おはようございます。今日は第一アドベント礼拝とあるように、教会のカレンダーでは今日から 12 月 24 日までを「アドベント・待降節」と呼びます。「もうそんな時期か」と感じますけれども、先ほどクリスマスの賛美歌を 2 曲歌いながら、段々と実感が湧いてきました。 「アドベント」というのは元々ラテン語で「来臨」「到来」を意味する言葉です。誰の到来かと言うと、もちろんイエスさまなわけですが、そこには実は二つの意味が込められています。一つは、すでに到来されたイエスさまの誕生をお祝いする準備をするということ、そして二つ目は、やがて再び到来されるイエスさまを待ち望むということです。私たちは今日からこのアドベント・クランツのろうそくを毎週 1 本ずつつけていくわけですが、このろうそくの光を見ながら私たちはまず、キリストの光はすでにこの世界にもたらされているということをおぼえ、それに加えて、 1 本 2 本と光が増えていく中で、キリストの再臨が少しずつ、しかし確かに近づいていることをおぼえ、待ち望む、そのような期間を過ごしていきたいと思います。それではお祈りをもって御言葉に聴いていきましょう。   序 今朝私たちが開いているのは、有名な受胎告知の場面です。この場面は特にヨーロッパで、様々な絵画のモチーフとされてきました。読書をしているか、糸を紡いでいるマリアのもとに、光り輝く御使いが現れる、そんな様子が昔から描かれてきたわけです。みなさんも一度は見たことがあると思います。 それほど有名な箇所ですので、みなさん話の流れはよくご存知だと思います。ですので、今朝私たちはこのストーリーの背後にある神さまの壮大な救いのご計画に目を向けながら、御言葉に聴いていきたいと思います。   神さまの壮大な救いのご計画 その壮大な救いのご計画を読み取るためのキーワードとなるのは、「ダビデ」という言葉です。この名前は今日の箇所に 2 回、そしてイエスさまの誕生物語が記されているルカ 1-2 章で数えると合計 6 回も出てきます。ダビデというのはみなさんご存知の通り、イスラエル王国に最大の繁栄をもたらした王様です。イスラエルの中でダビデ王というのは最早伝説とも言えるような、理想的な王様として知られていました。しかしダビデ王が理想的な王様として知られていたということは、裏を返せばそれ以外の王様は決して理想

マルコ4:21-25「みことばを待ち望む」

  みことばは裏切らない マルコの福音書 4 章には、イエスさまが語られたたとえ話が多く記されています。先週私たちはその中でも一番長いたとえ話である種まきのたとえからみことばに聞きました。そして今日私たちが開いている 21-25 節には、二つのたとえと言いますか、格言のようなものが記されています。一つ目は 21-23 節です。 21 節をお読みします。「 イエスはまた彼らに言われた。『明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。』 」 まずイエスさまは「明かり」についての話をされます。「升の下」とありますが、この「升」というのは、当時明かり(オイルランプ)を消す時に使われたもののようです。升をランプにかぶせることによって、煙が部屋に充満しないようにするということです。ですからここでまずイエスさまが言っているのは、せっかく明かりをつけてきたのに、それを早速升の下に置いて消す人はいないだろうということです。あるいは、明かりをわざわざつけてきたのに、それを「寝台の下」、つまりベッドの下に置く人はいないだろう。普通、みんな燭台の上に置いて、部屋全体を明るくするために使うだろう。それが 21 節でイエスさまが言っておられることですが、ここで私たちが注目したいのは「明かりを持って来るのは」という表現です。これは日本語として分かりやすくするためにこのように翻訳されていますが、元のギリシャ語を直訳するとこのようになります。「 明かりが来るのは 、升の下や寝台の下に置かれるためでしょうか」。「明かりが来るのは」、ここでは明らかに「明かり」が主語として書かれています。それは決して「明かり」がテクテクと歩く生き物として描かれているということではなく、この「明かり」は明確に一人の人物を指し示しているということです。誰でしょうか。もちろんイエスさまです。イエスさまは地味に、誰にも気づかれずに生きる人生を送るためにこの世界に来られたのではない。光である神の御子イエス・キリストが来られたからには、必ずその光がこの世界を覆う時がやって来るとイエスさまはここで仰っているのです。ですから 22 節でこう続けます。「 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。 」たしかに今はイエスさまの光がはっ

マルコ4:1-20「聞く耳のある者は聞きなさい」

  マルコの福音書の説教も今日から第 4 章に入ります。これまで 1 章 2 章 3 章とイエスさまの宣教の様子を見てきましたが、その中で人々は様々な反応を示してきました。ある者はイエスさまの御言葉に応答し、キリストの弟子となりました。ある者は弟子になるまではいかなくとも、自らが癒されることを願い、イエスさまの周りに集まりました。またある者たちはイエスさまに対して敵対心を抱き、イエスさまを殺す計画まで立て始めました。語られていたことは同じです。彼らはみな同じイエスさまの御言葉を聞いていた。けれども、反応は様々。すると、自ずとこのような疑問が湧いてきます。同じ御言葉が語られているのに、なぜここまで反応が分かれるのか。その疑問に答えているのが、今日のたとえ話です。 ただここでイエスさまが語っておられるたとえ話は、今の私たちの世界で一般的に言われる「たとえ」とは少し違った性質をもっているように思います。どういうことか。「たとえ」というのは一般的に、ある物事を分かりやすく説明するために、他の物事を引き合いに出して説明する時に使われます。ですから通常「たとえ」というものは、相手によりよく理解してもらうために使われるものです。けれども今日の箇所を読んでいると、どうもイエスさまはそういった「たとえ」の用い方をしていないように思える。たとえば 11 節でイエスさまはこのように言っています。「 あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。 」ここで使われている「内」と「外」の対比は、私たちが先週まで開いていたマルコ 3 章から続いているものです。これを読む限り、イエスさまは「外の人たち」に対して神の国の奥義を隠すために、あえて「たとえ」を用いられたということが分かります。実際、ここで使われている「たとえ」という言葉は、元々「なぞ」という意味ももっている言葉です。御言葉を求めて神の家族の中に入り、イエスさまの周りに集う者には直接真理が語られるけれども、御言葉を求めず、家の外に立ち続け、自分の立ち位置を変えようとしない者には、「なぞ」、すなわちあえて分かりにくい方法で真理が語られる。それこそがイエスさまの用いられた「たとえ」の特徴でした。 けれども、そこで私たちはこのように思うのではないでしょうか。「それではあまりにも不公平じゃないか」

マルコ3:31-35「神の家族なる教会」

  「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」。イエスさまは今日の箇所でそうおっしゃいます。「イエスさまって冷たいなぁ」「なんて薄情な」、私たちは今日の箇所を読んでそのような印象を抱くかもしれません。実際に同じセリフを自分の家族に言われたとしたら、かなりのショックを受けるはずです。親からすれば、「一体誰がここまで育ててきたと思っているんだ」と怒りを覚えると思います。あの愛に満ちた、優しいイエスさまがどうして急にそんなに冷たいことを言うのか。私たちは疑問に思います。 今日の箇所のストーリーは、先々週に開いたマルコ 3 章 20 節から始まっています。お読みします。「 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである。 」ナザレの町にいたイエスさまの身内の者たちは、イエスさまに対する悪い噂を耳にして、イエスさまを連れ戻すためにカペナウムの町に出かけたというところです。これは家族としてはある意味自然な行動だと思います。イエスさまを連れ戻そうとしたということは、イエスさまのことを心配していたということです。そこに家族の愛は存在していたでしょう。今の時代で言うと、上京した自分の息子が何やらおかしなことばかりしているらしいと耳にした親が、息子を連れ戻しに東京に行くという感じでしょうか。イエスさまの家族はとにかくイエスさまのことが心配だったのだと思います。 そして今日の箇所の 31 節、ナザレを旅立ったイエスさまの家族はカペナウムに到着して、人を送ってイエスさまを呼びました。この 31-35 節では二つのグループの明確な対比が見られます。一つ目のグループは、先ほどから触れているイエスさまの家族です。この家族に関して使われている言葉を見ると、その特徴が明らかになります。 31 節「外に立ち」「人を送って」、そして 32 節「外に来ておられます」。彼らは決して家の中に入っていこうとはしませんでした。外に立ったまま、自分の立ち位置は変えようとしない。逆にイエスさまの方を自分たちの思い通りに変えようとする。それがイエスさまの家族の姿でした。そのような家族に対し、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょ