マルコ3:31-35「神の家族なる教会」

 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」。イエスさまは今日の箇所でそうおっしゃいます。「イエスさまって冷たいなぁ」「なんて薄情な」、私たちは今日の箇所を読んでそのような印象を抱くかもしれません。実際に同じセリフを自分の家族に言われたとしたら、かなりのショックを受けるはずです。親からすれば、「一体誰がここまで育ててきたと思っているんだ」と怒りを覚えると思います。あの愛に満ちた、優しいイエスさまがどうして急にそんなに冷たいことを言うのか。私たちは疑問に思います。

今日の箇所のストーリーは、先々週に開いたマルコ320節から始まっています。お読みします。「さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである。」ナザレの町にいたイエスさまの身内の者たちは、イエスさまに対する悪い噂を耳にして、イエスさまを連れ戻すためにカペナウムの町に出かけたというところです。これは家族としてはある意味自然な行動だと思います。イエスさまを連れ戻そうとしたということは、イエスさまのことを心配していたということです。そこに家族の愛は存在していたでしょう。今の時代で言うと、上京した自分の息子が何やらおかしなことばかりしているらしいと耳にした親が、息子を連れ戻しに東京に行くという感じでしょうか。イエスさまの家族はとにかくイエスさまのことが心配だったのだと思います。

そして今日の箇所の31節、ナザレを旅立ったイエスさまの家族はカペナウムに到着して、人を送ってイエスさまを呼びました。この31-35節では二つのグループの明確な対比が見られます。一つ目のグループは、先ほどから触れているイエスさまの家族です。この家族に関して使われている言葉を見ると、その特徴が明らかになります。31節「外に立ち」「人を送って」、そして32節「外に来ておられます」。彼らは決して家の中に入っていこうとはしませんでした。外に立ったまま、自分の立ち位置は変えようとしない。逆にイエスさまの方を自分たちの思い通りに変えようとする。それがイエスさまの家族の姿でした。そのような家族に対し、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と厳しいことばを向けられたのです。

それに対し、二つ目のグループの人々は家の中でイエスさまを囲み、イエスさまの周りに座っていました。この「座っていた」というのは、単に座ってボーッとしていたというわけではなく、当時のユダヤ教のラビの周りに弟子が集まって、聖書の教えを聴くときに使われた表現です。ですからこの二つ目のグループの人々は、イエスさまの周りに座って、イエスさまのみことばに聴いていた。家の外に立ち、自分の立ち位置は決して変えようとしなかったイエスさまの家族に対し、彼らは自ら家の中に入り、イエスさまのもとに行き、イエスさまのみことばの下に自らを置いたのです。そのような人々に向かってイエスさまは言われました。34節「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」。

「神のみこころを行う人」、それだけを聞くとちょっとハードルが高いように思えますが、この文脈を見る限り、「神のみこころを行う人」というのはその場でイエスさまの周りに座り、みことばに聴いていた人たちのことを指しています。もちろん「神のみこころを行う」ということには様々なことが含まれてきますが、いずれにしても、まずはみことばに聴くというところから「神のみこころを行う」ということは始まっていくのです。

みことばに聴くためにイエスさまの周りに集う人々、それはまさに私たち教会のことです。この礼拝堂の中心には聖書が置いてあります。この聖書はただ見栄えがいいからとか、それっぽくてかっこいいからという理由でここに置いてあるわけではないと思います。あるいは、聖書そのものにひれ伏して、聖書に礼拝をささげるために置いてあるわけでもありません。この礼拝堂の中心に聖書が置いてあるということは、私たちはみことばを聴くためにこの会堂に、イエスさまの周りに集まっているのだということを目に見えるかたちで表しているのです。私たちはみことばに聴き、神さまを崇めることを第一の目的としてこの場所に集っている。イエスさまはそんな私たち教会に向かっても、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です」とおっしゃってくださるのです。

みなさんは「教会って要するになんですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。答えは色々とあると思います。聖書の表現で言えば、「キリストのからだ」という説明があります。「神の民」という説明もできるでしょう。あるいは「礼拝共同体」という説明もできるかもしれません。聖書は教会を説明するために様々な表現を用いています。そして今日の箇所で示されているのは、「神の家族」としての教会の姿です。教会は父なる神さまをお父さまとし、イエスさまを長男とする神の家族です。そして教会に加えられるということは、その神の家族に加えられるということです。教会では「〜兄弟」「〜姉妹」という呼び方をします。教会に長くいるとその呼び方が染み付いてしまって、「〜さん」と同じように、単なる敬称として「兄弟」「姉妹」ということばを使ってしまうことがあるように思いますが、これは決して単なる敬称ではありません。私たちはキリストにあって神の家族の中の兄弟姉妹とされている。「〜兄弟」「〜姉妹」と口にするとき、私たちはそれをどれほど意識しているでしょうか。教会の中の交わりは本当に家族、兄弟姉妹としての交わりになっているでしょうか。キリストにある真の兄弟姉妹として、互いに愛し合い、支え合う。それが神の家族としての教会の姿です。

それでは、血の繋がった家族はどうなるのでしょうか。説教の冒頭で、イエスさまはあまりにも冷たいのではないかという話をしました。確かに、イエスさまはここで血の繋がった家族とのつながりを断ち切っています。家の外に立ち続け、自分の立ち位置を決して変えようとしない自分の家族に対し、イエスさまは断固とした対応を取られたのです。けれども、イエスさまは決して家族を切り捨てたわけではありません。例えば今日の箇所に登場するイエスさまの母のマリア。ヨハネの福音書を見ると、イエスさまは十字架の場面で愛する弟子ヨハネに対して、母のことをよろしく頼むという意味のことばを残しています。イエスさまは母マリアのことを愛し、最後まで気にかけておられた。マリアはその後もおそらく教会の中で、神の家族の一員として大切にされていったことでしょう。そして、主の兄弟ヤコブ。イエスさまの弟だったヤコブは、おそらく復活後にイエスさまのことを信じ、その後エルサレム教会の指導者として大活躍をしました。使徒の働きやガラテヤ書には彼の活躍が記録されています。また彼が書いたとされる新約聖書の「ヤコブの手紙」の中で、彼は自分のことを「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と紹介しています。今日のマルコの箇所に出てくる「兄弟」の中にヤコブがいたかどうかは分かりませんが、彼はやがて血の繋がった自分の兄イエスを自分の主として受け入れ、キリストのしもべとしての生涯を全うしたのです。

マルコの福音書はイエスさまが復活した後に執筆された書物ですから、著者マルコは主の兄弟ヤコブの活躍や、イエスさまの母マリアのその後の様子などもよく知っていたはずです。また、マルコの福音書の最初の読者もそのことをよく知っていたはずです。それはつまり何を意味しているのかというと、今日の箇所は、イエスさまと血の繋がった家族が切り捨てられた話ではなく、むしろその後、神の家族が血の繋がった家族にまで及んでいったことをも証ししている話なのです。この時点では家の外に立っていた家族も、やがては一歩を踏み出す決断をし、イエスさまの周りに集う神の家族に加えられていったのです。神の家族は決して閉鎖的なものではありません。逆に神の家族は人をどんどん迎え入れ、拡大し、増え広がっていくものなのです。

今の時代、多くの家庭が崩壊していると言われています。家庭内暴力、離婚、ひとり親世帯、子どもの貧困、家庭にまつわる問題を挙げていけばきりがありません。家族の絆がどんどん薄く、弱くなってきていると言われます。家族の交わりの温かさに飢えている人々がどれほどいることでしょうか。そのような世の中にあって、教会には神の家族の交わり、真の愛の交わりが存在していることを私たちは示していきたいと願います。そして、今日の礼拝から新たにY姉妹が私たち港南福音教会の家族に加えられたように、これからも多くの方々を神の家族の交わりに招いていきたいと願います。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です」。イエスさまは今日も温かい目で私たちを見回し、声をかけてくださっています。

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