投稿

7月, 2020の投稿を表示しています

マルコ1:35-39「祈りによって」

  序 イエスさまの地上での生涯は大変忙しいものでした。先週私たちが開いた箇所は、シモンとアンデレの家に滞在していたイエスさまのもとに大勢の病人や悪霊につかれた人が押し寄せてきたというところで終わりました。一躍町の有名人、人気者になったイエスさまです。おそらく夜遅くまで癒しと悪霊追い出しをしていたことでしょう。けれども今日の箇所では、休む暇なく、朝早くから祈りに向かっているイエスさまの姿が描かれています。しかし、おそらく弟子たちは朝起きてイエスさまがいないことに気づいたのでしょう。そしてドアの前にはすでに多くの人々が癒しを求めて集まっていたのかもしれません。弟子たちは急いでイエスさまを探しに行きました。すると、郊外の寂しいところで一人祈っていたイエスさまを見つけたので、「イエスさま、こんなところで何をしてるんですか!みんながあなたを探しています!」そう声をかけた。しかしイエスさまはそれに対して 38 節「 さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから 」。イエスさまは人々が待っているカペナウムに戻ることはせずに、違う町や村へと旅立っていった、それが今日の箇所の流れになります。   人間の限界 けれども、ここを読んでみなさんおそらくこのように思われたのではないでしょうか。「イエスさま、ちょっと冷たいんじゃないですか?」と。「この町にはイエスさまを必要としている人々がまだ大勢いるのに、なぜその人々を置いて他の町に行ってしまうのですか?」もちろんイエスさまはこの後カペナウムに何度も戻って来ますから、カペナウムを見捨てたというわけではありません。けれども、「せっかく人々から求められているのになぜ…」と思ってしまうのが普通の反応だろうと思います。 そして、それはまさしく弟子たちが感じたことでもあったと思います。あるいは、弟子たちはそれ以上のことを考えていたかもしれません。おそらく弟子たちはすでに、イエスさまが何か大きなことをなそうとしているということを察していました。けれども、イエスさまはいわばまだ「駆け出し」の状態です。一般的に考えて、何か大きなことをなすには、人々からの支持が必要です。選挙で言えば、地元での地盤固めというのが大切になるわけです。ですから、おそらく弟子たちはこう考えていたと思うのです。「イエスさま、

マルコ1:29-34「もたらされた救い」

  今日の箇所は、「一行は会堂を出るとすぐに」という言葉から始まります。先週私たちは、イエスさまが安息日に会堂で権威ある者として教え、悪霊を追い出されたという箇所を開きました。当時も会堂で礼拝が行われたのは午前中だったようですので、その後のお昼くらいの時間に、イエスさまは弟子のシモンとアンデレの家に向かいました。そしてその日はその家に滞在し、日が沈んで安息日が終わってからは家の前で多くの人々を癒し、悪霊を追い出したというのが今日の箇所です。時間にしたら半日の間に起こった出来事ですけれども、今日私たちは特に前半部分のシモンの姑の癒しの物語に注目して御言葉に聞いていきたいと思います。 先週の箇所から私たちは「イエスさまの権威に服する」ということを学びました。そこで私たちがイメージするのは、偉大で力と栄光に満ちておられるイエスさまです。ともすれば少し近づきがたいような印象をもつかもしれません。けれども、今日の箇所は一転、非常に個人的な関わりにおける温かいイエスさまの姿が記されています。この奇跡自体は小さいものでした。「熱を出して」とありますが、これは本当に単なる「発熱」のことでして、決して死に至るような病ではありませんでした。ある人はこの奇跡を「福音書に書かれているなかで一番小さな、ささやかな癒しの奇跡」と説明しているようです。しかし興味深いことに、この奇跡はマタイ、マルコ、ルカのどの福音書にも記録されています。奇跡自体は小さいものだったかもしれないけれど、ここには重要な何かが隠れている、そんな気がしてなりません。 そこで私たちが思い出したいのは、このマルコの福音書は誰の証言をもとに書かれたのかということです。以前チラッとお話ししましたが、実はこのマルコの福音書はイエスさまの一番弟子だったシモン・ペテロの証言をもとに書かれたと言われています。そう考えると、この箇所はこういう風に読み替えることもできると思います。「イエスさまは会堂を出るとすぐに、私たちの家に来られたんだ。ヤコブとヨハネも一緒だった。そうしたら私の妻の母が熱を出して横になっていたので、私たちは彼女のことをすぐにイエスさまに知らせたんだ。」そういったように、私たちはこの箇所からペテロの思いを読み取っていきたいと思います。すると、なぜこの小さな奇跡の物語がここに記されているのかが見えてくるはずです。 さて、ペテロ

マルコ1:21-28「主イエスの権威」

  序 今朝私たちが開いている箇所の舞台はカペナウムという町です。この町はガリラヤ湖の北西岸に位置していまして、イエスさまはこの町を中心にガリラヤでの宣教を行なっていきました。マタイの福音書ではこのカペナウムを指して「イエスは…自分の町に帰られた」( 9:1 )と書いてありますから、イエスさまにとっては大変馴染みの深い町だったわけです。そんなカペナウムという町ですが、実は今でも遺跡が残っています。中でも一番有名なのはユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる会堂の遺跡でして、それはおそらく今日の箇所に出てくる会堂だろうと言われています。私も 2 年前に行ったことがありますが、とても大きく立派な会堂跡で、「あぁ、イエスさまもここで教えていたんだなぁ」と感動を覚えました。   神の国の新しい教え さて、今日の箇所では「イエスは安息日に会堂に入って教えられた」とあります。当時のユダヤ人は毎週安息日に集まって礼拝をしていました。その内容は主に祈りと聖書朗読、そして聖書の解き明かしだったようですので、今の私たちの礼拝とそこまで変わりません。通常聖書の解き明かしは会堂にいる教師(ラビ)が担当していたようですが、出席者の中に他のラビがいれば、会堂管理者が依頼をして、その場で解き明かしをしてもらうといったこともあったようです。今日の箇所はまさしくそういった場面での出来事になります。ある日礼拝をしていたら、イエスという最近有名になり始めたラビのような人が来たので、解き明かしをお願いされた、そんな場面です。集っていた会衆は、「この若手ラビは一体どんな話をしてくれるんだ?」と期待していたかもしれません。 すると 22 節「人々はその教えに驚いた」とあります。なぜか、それは「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたから」です。普通、ラビは聖書の解き明かしをするわけですから、その内容はもちろん聖書の教えの解説になるわけです。聖書のどこにも書いていない、全く新しい話をしたら異端になってしまいますから。それはキリスト教の説教者も同じです。私は決して毎週好き勝手なことを話しているわけではなくて、聖書の御言葉の解き明かしをしているわけです。 けれども、イエスさまは違いました。イエスさまは旧約聖書が語っていたことを超えた、全く新しい教えを語ったのです。「目には目を、歯には歯を」と旧約聖書