マルコ1:29-34「もたらされた救い」

 今日の箇所は、「一行は会堂を出るとすぐに」という言葉から始まります。先週私たちは、イエスさまが安息日に会堂で権威ある者として教え、悪霊を追い出されたという箇所を開きました。当時も会堂で礼拝が行われたのは午前中だったようですので、その後のお昼くらいの時間に、イエスさまは弟子のシモンとアンデレの家に向かいました。そしてその日はその家に滞在し、日が沈んで安息日が終わってからは家の前で多くの人々を癒し、悪霊を追い出したというのが今日の箇所です。時間にしたら半日の間に起こった出来事ですけれども、今日私たちは特に前半部分のシモンの姑の癒しの物語に注目して御言葉に聞いていきたいと思います。

先週の箇所から私たちは「イエスさまの権威に服する」ということを学びました。そこで私たちがイメージするのは、偉大で力と栄光に満ちておられるイエスさまです。ともすれば少し近づきがたいような印象をもつかもしれません。けれども、今日の箇所は一転、非常に個人的な関わりにおける温かいイエスさまの姿が記されています。この奇跡自体は小さいものでした。「熱を出して」とありますが、これは本当に単なる「発熱」のことでして、決して死に至るような病ではありませんでした。ある人はこの奇跡を「福音書に書かれているなかで一番小さな、ささやかな癒しの奇跡」と説明しているようです。しかし興味深いことに、この奇跡はマタイ、マルコ、ルカのどの福音書にも記録されています。奇跡自体は小さいものだったかもしれないけれど、ここには重要な何かが隠れている、そんな気がしてなりません。

そこで私たちが思い出したいのは、このマルコの福音書は誰の証言をもとに書かれたのかということです。以前チラッとお話ししましたが、実はこのマルコの福音書はイエスさまの一番弟子だったシモン・ペテロの証言をもとに書かれたと言われています。そう考えると、この箇所はこういう風に読み替えることもできると思います。「イエスさまは会堂を出るとすぐに、私たちの家に来られたんだ。ヤコブとヨハネも一緒だった。そうしたら私の妻の母が熱を出して横になっていたので、私たちは彼女のことをすぐにイエスさまに知らせたんだ。」そういったように、私たちはこの箇所からペテロの思いを読み取っていきたいと思います。すると、なぜこの小さな奇跡の物語がここに記されているのかが見えてくるはずです。

さて、ペテロがどのようにしてイエスさまの弟子になったのかについては、この前の1:16-18に書いてありました。ペテロと兄弟アンデレは元々漁師でしたが、イエスさまに「わたしについて来なさい」と呼ばれ、網を捨ててすぐに従ったのでした。網を捨てるということは、彼らの仕事を捨てたということです。そして仕事を捨てたということは、家族を捨てたということをも意味します。今日の箇所にはペテロの姑が出て来ますが、それはつまりペテロにはすでに奥さんがいたということです。もしかしたら子どももいたかもしれません。もしイエスさまに従って行くなら、家族をこれまで通り養っていくことはできません。一緒に暮らすこともほとんどできなくなります。しかしペテロはそれでもなお、イエスさまに従うという決断をしたのです。どれだけ大きな決断だったのだろうと思います。

しかし、そんなペテロの家をイエスさまが早速訪問するというのが今日の箇所です。この訪問の経緯についてははっきりと書いてありませんので、私たちはそれを想像するしかありません。けれども、29節の欄外注に書いてありますが、29節の「一行」という言葉、これは古い聖書の写本によっては「イエスは」という言葉になっています。ですから、ペテロとアンデレがイエスさまを招いたというよりも、イエスさまの方から訪問を提案したということではないかと想像できます。「そう言えばこの町にはあなたの家がありましたよね。今日はそこに滞在してもいいですか」、そんな風にイエスさまはペテロに提案したのかもしれません。その時、ペテロはどういう風に思ったでしょうか。ペテロとしては、家族にイエスさまを会わせるのが怖かったかもしれません。あるいは気まずかったかもしれない。家族はなんて顔をするだろうか。イエスさまを歓迎してくれるだろうか。いや、そもそも自分ごと追い出されるんじゃないだろうか。

しかし家に着くと、なんと義理のお母さんが熱を出して寝込んでいるという状態です。普通ならば、「イエスさま、やっぱり私のところは今日は難しいみたいです。ヤコブとヨハネの家に泊まったらどうですか?」と提案するところでしょう。けれども、イエスさまが普通の人ではないことをすでにみんな知っていました。「イエスさまならなんとかしてくれるんじゃないか?」ペテロの家族からすれば、それでイエスさまを試したいという思いがあったかもしれません。いずれにせよ、ペテロと彼の家族はイエスさまに助けを求めました。

すると31節「イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた」。「そばに近寄り、手を取って起こされた」、これはその場でそれを見ていたペテロの思いが詰まっている言葉です。「イエスさまに従うために自分は仕事も家族も捨てた。しかしその自分が捨てたはずの家族にイエスさまはご自身の方から近寄り、手を取って癒してくださった」。そんなペテロの感動が伝わって来ます。そして31節の最後には「彼女は人々をもてなした」とあります。この「もてなした」という言葉は元のギリシャ語ですと未完了時制という形になっていまして、「この時点からもてなし始めた」というように、その後もそれが継続したということを表しています。おそらく、イエスさまのガリラヤでの働きの拠点の一つとしてこの家を提供したということです。またこの「もてなした」という言葉は、欄外注にもあるように「仕えた」とも訳せる言葉です。彼女はこの癒しの出来事を通し、イエスさまに仕え始めた、弟子としての歩みを始めた。それはペテロにとってどれほど感動的な出来事だったでしょうか。自分が捨てたはずの家族に救いがもたらされた。小さな癒しの奇跡だったかもしれません。しかしペテロにとっては間違いなく、生涯忘れられない出来事になったはずです。

イエスさまの弟子となる道は、一方では家族への執着を断ち切る道です。イエスさまはこう仰っています。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37)。イエスさまを第一にする弟子の歩みというのはそういうものです。ペテロもそう決断し、仕事と家を捨て、イエスさまの弟子になりました。

けれども同時に覚えたいのは、イエスさまは決して家族をないがしろにされるお方ではないということです。イエスさまはこのようにも仰いました。共に開きましょう。マルコ10:29-31です(p.88)。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます」。そしてその通り、イエスさまは家を捨ててイエスさまについて来たペテロの家を自ら訪問し、癒しの御手を差し伸べ、その家に救いをもたらしました。家を捨てたペテロは、予想もしなかった形で、それ以上のものを受けたのです。ここに記されているのは、そんなペテロの証しです。

この恵みを、この約束を私たちは今朝覚えたいと思います。どのような形で恵みがもたらされるのかは人それぞれかもしれません。安易なことは口にできません。けれども確かなのは、私たちの犠牲は犠牲で終わることはないということです。イエスさまは犠牲を払ってでもご自身に従う決心をした者に対し、必ず豊かな恵みを注いでくださる。しかも私たちが思いがけもしない方法で。そのイエスさまの確かな約束を、このペテロの証しを通して、私たちは今朝改めて覚えていきたいと願います。

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