マルコ1:35-39「祈りによって」

 

イエスさまの地上での生涯は大変忙しいものでした。先週私たちが開いた箇所は、シモンとアンデレの家に滞在していたイエスさまのもとに大勢の病人や悪霊につかれた人が押し寄せてきたというところで終わりました。一躍町の有名人、人気者になったイエスさまです。おそらく夜遅くまで癒しと悪霊追い出しをしていたことでしょう。けれども今日の箇所では、休む暇なく、朝早くから祈りに向かっているイエスさまの姿が描かれています。しかし、おそらく弟子たちは朝起きてイエスさまがいないことに気づいたのでしょう。そしてドアの前にはすでに多くの人々が癒しを求めて集まっていたのかもしれません。弟子たちは急いでイエスさまを探しに行きました。すると、郊外の寂しいところで一人祈っていたイエスさまを見つけたので、「イエスさま、こんなところで何をしてるんですか!みんながあなたを探しています!」そう声をかけた。しかしイエスさまはそれに対して38節「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」。イエスさまは人々が待っているカペナウムに戻ることはせずに、違う町や村へと旅立っていった、それが今日の箇所の流れになります。

 

人間の限界

けれども、ここを読んでみなさんおそらくこのように思われたのではないでしょうか。「イエスさま、ちょっと冷たいんじゃないですか?」と。「この町にはイエスさまを必要としている人々がまだ大勢いるのに、なぜその人々を置いて他の町に行ってしまうのですか?」もちろんイエスさまはこの後カペナウムに何度も戻って来ますから、カペナウムを見捨てたというわけではありません。けれども、「せっかく人々から求められているのになぜ…」と思ってしまうのが普通の反応だろうと思います。

そして、それはまさしく弟子たちが感じたことでもあったと思います。あるいは、弟子たちはそれ以上のことを考えていたかもしれません。おそらく弟子たちはすでに、イエスさまが何か大きなことをなそうとしているということを察していました。けれども、イエスさまはいわばまだ「駆け出し」の状態です。一般的に考えて、何か大きなことをなすには、人々からの支持が必要です。選挙で言えば、地元での地盤固めというのが大切になるわけです。ですから、おそらく弟子たちはこう考えていたと思うのです。「イエスさま、この町にはまだ多くの必要があります。人々はあなたの素晴らしさに気づき始めているんです。ですからもっとここに留まって、多くの人々を味方につけてから他の場所まで働きを広げていったらいいじゃないですか」。これは今の私たちから考えても、常識的な考えです。

しかし、イエスさまはより大きなものを見据えていました。イエスさまは人々の支持や人気を集めるためにこの世界に来られたのではありません。38節に「そのために(福音を伝えるために)、わたしは出て来たのだから」とあるように、イエスさまには福音、神の国の到来を告げ、人々を悔い改めと信仰に導くという明確な使命がありました。そのためにイエスさまはこの世界に来られた。ですから、もちろん癒しや悪霊追い出しも大切な神の国のしるしの業ではありましたが、カペナウムだけでなく、一人でも多くの人に福音を伝えるために、今は他の町に移動しようじゃないか。イエスさまはそのように弟子たちに対して、この地上の人間的な視点ではなく、神の国の視点からイエスさまの働きをとらえるように促したのです。

この地上の人間的な視点でしかイエスさまの働きを捉えられなかった弟子たち、そこに私たちは人間の限界を見ます。そして、人間の集まりである教会にもそういったことは起こり得ます。ここにはこんな必要があるから、私たちはこうしたらいいのではないか。あの教会はああやって成功を収めているから、私たちもそうした方がいいのではないか。もちろんそのように常識的に考え、知恵を絞るのは良いことです。地域の必要、人々の必要を考えることは大切なことですし、他の教会や他の人々から学ぶことも大切です。けれども私たちが注意しなければならないのは、そのような考えが最終的にどこから来ているのかということです。もしそれが人間の知恵からだけ来ているのであれば、教会は次第に神さまから託されている本来の使命とは違った方向に進んでいってしまうでしょう。あるいは教会だけでなく、個々人の生活においてもそうです。私たち人間はどうしてもこの地上の人間的な視点に囚われてしまい、本当に神さまが望んでおられることは何なのか、自分が神さまから与えられている使命は何なのかを見失ってしまうことがある。それが罪人である私たち人間の限界です。その限界を私たちはまずよくわきまえておく必要があります。

 

神の国の視点に立つ

けれども、私たちにはその限界を突破する方法が一つあります。そこで私たちが目を留めたいのは、イエスさまのお姿です。イエスさまはもちろん真の神さまですが、同時に真の人間でもありました。そして聖書にはイエスさまも私たちと同じように様々な誘惑を経験されたと書いてありますから、イエスさまもおそらく弟子たちと同じように色々と考えたと思うのです。どうやったら人々からもっと支持が得られるだろうか、そんな誘惑もあったことでしょう。けれども、イエスさまはその人間の限界を突破して、神の国の視点、父なる神さまから託されている本来の使命に堅く立ち続けました。それを可能にしたのが35節に描かれているイエスさまの姿です。35節「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」。そうです、祈りです。イエスさまは祈りによって父なる神さまから与えられている使命を見つめ直し、その使命に立ち続けていくための力を得ていたのです。実際に福音書にはイエスさまの祈る姿が多く描かれていますが、そこで気づかされるのは、イエスさまは大事な局面の前に必ず祈りの時間をもっておられたということです。その最たるものは十字架の前夜のゲッセマネの園での祈りです。そこでイエスさまは「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と自分の正直な思いを告白しました。けれどもその後にこう祈りました。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」。「自分の願い、思いではなく、父なる神さま、あなたが私に託された本来の使命に立ち続けさせてください」、そのようなイエスさまの祈りです。イエスさまは祈りを通していつも父なる神さまの御心を求め続け、ご自身がなすべきこと、ご自身の使命を見つめ直し続けたのです。

このイエスさまの祈りの姿に私たちは倣っていきたいと願います。現代人は忙しいと言われます。なかなかゆっくりと一人で祈る時間をもつことができない、そういった事情もあるでしょう。正直私自身も、これまでどれだけ祈りに時間を割いてきたか、問われるところが大いにあります。けれども、もし私たちが本当に神さまの御心に沿った歩みをしていきたいと願うならば、私たちはまず日々の祈りの生活を改めて見直す必要があります。私たちは普段、この地上の様々な人間的な視点に囚われています。そこからなかなか抜け出すことができない。けれども神さまは祈りを通して、私たちのこの心を神さまの御心にまで引き上げてくださいます。そしてそれによって私たちは、私たちを縛る人間的な視点から解放され、神の国の視点に立って物事を見て、判断し、生きることができるようになっていくのです。祈りとはそういうものです。そしてそれは教会も同じです。私たちはこの室蘭市港南町の地で神さまから何を託されているのか、私たちは何をするべきなのか。もちろん私たちは知恵を尽くして考えていきたいと思いますが、私たちが何よりも一番大切にすべきは祈りです。私たちは祈りを通して、神さまが私たちの教会に託してくださっている使命を日々見つめ直していきたい。祈りを通して、この地上の人間的な視点を超えた、神の国の視点に立っていきたい。その時、神さまは私たちにどのような神の国の景色を見させてくださるでしょうか。期待しつつ、今週も祈りの生活に向かっていきましょう。

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