マルコ1:21-28「主イエスの権威」

 

今朝私たちが開いている箇所の舞台はカペナウムという町です。この町はガリラヤ湖の北西岸に位置していまして、イエスさまはこの町を中心にガリラヤでの宣教を行なっていきました。マタイの福音書ではこのカペナウムを指して「イエスは…自分の町に帰られた」(9:1)と書いてありますから、イエスさまにとっては大変馴染みの深い町だったわけです。そんなカペナウムという町ですが、実は今でも遺跡が残っています。中でも一番有名なのはユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる会堂の遺跡でして、それはおそらく今日の箇所に出てくる会堂だろうと言われています。私も2年前に行ったことがありますが、とても大きく立派な会堂跡で、「あぁ、イエスさまもここで教えていたんだなぁ」と感動を覚えました。

 

神の国の新しい教え

さて、今日の箇所では「イエスは安息日に会堂に入って教えられた」とあります。当時のユダヤ人は毎週安息日に集まって礼拝をしていました。その内容は主に祈りと聖書朗読、そして聖書の解き明かしだったようですので、今の私たちの礼拝とそこまで変わりません。通常聖書の解き明かしは会堂にいる教師(ラビ)が担当していたようですが、出席者の中に他のラビがいれば、会堂管理者が依頼をして、その場で解き明かしをしてもらうといったこともあったようです。今日の箇所はまさしくそういった場面での出来事になります。ある日礼拝をしていたら、イエスという最近有名になり始めたラビのような人が来たので、解き明かしをお願いされた、そんな場面です。集っていた会衆は、「この若手ラビは一体どんな話をしてくれるんだ?」と期待していたかもしれません。

すると22節「人々はその教えに驚いた」とあります。なぜか、それは「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたから」です。普通、ラビは聖書の解き明かしをするわけですから、その内容はもちろん聖書の教えの解説になるわけです。聖書のどこにも書いていない、全く新しい話をしたら異端になってしまいますから。それはキリスト教の説教者も同じです。私は決して毎週好き勝手なことを話しているわけではなくて、聖書の御言葉の解き明かしをしているわけです。

けれども、イエスさまは違いました。イエスさまは旧約聖書が語っていたことを超えた、全く新しい教えを語ったのです。「目には目を、歯には歯を」と旧約聖書では言われていたところを、「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と語り、「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていたところを、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とまで語られた。これは人々のそれまでの価値観をガラッと変えるような、全く新しい教えでした。それはもう聖書の「解き明かし」ではありません。イエスさまによってもたらされた神の国の新しい価値観、新しい倫理、新しい生き方だったのです。

 

神の国の王としての権威

ですが、普通急にそんなことを言われたら、人々は怪しみます。例えば、この教会に急に知らない教団の牧師を名乗る人がやって来て、聖書に書いていないような新しい教えをこの講壇で話し始めたら、おそらく私たちは「この人はおかしいぞ」と思って、警戒をするはずです。ですから、今日の箇所に出てくる人々も、驚きはしても、おそらく初めは怪しんだと思うのです。一体このイエスという男は何の権威があってこの新しい教えを語っているのかと。けれども、彼らはすぐにイエスさまの権威を認めざるを得ない出来事に遭遇します。それが23節からの汚れた霊の物語です。

人々はまだイエスという男がどのような存在なのかを理解していませんでしたが、汚れた霊は即座にイエスさまがどのようなお方であるのかを見抜きました。23-24節「ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。『ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅しに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。』」人々には分からなかったイエスさまの正体が汚れた霊にはすぐに分かったというのは皮肉な話です。汚れた霊、悪霊とも言いますが、彼らはイエスさまを見てすぐに危機感を感じました。この男は、この世を支配している悪の力を滅ぼし、この地上に神の国を打ち立てるために天から遣わされて来たということを瞬時に悟ったのです。そしてイエスさまはその通り、汚れた霊を叱り、追い出しました。

このいわゆる「悪霊祓い」について、今の私たちはどう考えたらよいのかについては、今日は時間の都合上お話しすることはできません。今日私たちがここで注目したいのは、イエスさまが汚れた霊を追い出した方法です。この悪霊祓いというのは古代からよく行われていたことでした。「エクソシスト」という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、あれは「悪霊祓い師」のことです。通常、古代の悪霊祓い師は悪霊を追い出す時に何かしらの儀式を行なったり、呪文を唱えたようです。それはつまり、彼らは自分の権威や力で悪霊を追い払ったのではなく、儀式や呪文によって何か他の権威や力を借りて追い払ったということです。それが当時の一般的な「悪霊祓い」でした。

ではイエスさまはどうだったのか。25-26節「イエスは彼を叱って、『黙れ。この人から出て行け』と言われた。すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」至ってシンプルです。「出て行け」、この言葉だけでイエスさまは汚れた霊を追い出したのです。これは、イエスさまのことばそのものに権威、力があったことを意味しています。イエスさまは他の権威や力も借りる必要がありませんでした。イエスさまは神の国の王としての権威をご自身の内にもっておられたからです。だから、汚れた霊、悪魔は、神の国の王であるイエスさまに全く歯が立たなかったのです。イエスさまは悪の力を従わせる権威をもっておられた。だから人々はそれを見てさらに驚き、イエスさまの権威を認めざるを得なくなりました。27節「人々はみな驚いて、互いに論じ合った。『これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。』人々はイエスさまが神の子キリストであるとは理解していませんでしたが、イエスさまが他の人にはない、力ある権威をもっておられるということは認めざるを得なくなったのです。

 

権威を前にして

さて、今日の箇所で私たちはイエスさまがもっている権威について学びました。旧約の律法を超えて、神の国の新しい価値観、倫理、生き方をもたらす権威。そしてご自身の力あることばによって悪の力を滅ぼし、人を悪の支配から解放する権威。イエスさまが示されたこの神の国の王としての権威に対し、今日の箇所では二つの反応が見られました。一つ目は、人々の反応です。彼らはイエスさまからただならない権威を感じて驚きはしましたが、イエスさまを神の子キリスト、神の国の王として認め、イエスさまに従うまでには至りませんでした。驚きで止まってしまい、イエスさまと個人的な関係をもとうとはしなかったのです。それに対し二つ目は、汚れた霊の反応です。汚れた霊はイエスさまが神の子キリスト、神の国の王であると瞬時に認めましたが、「私たちと何の関係があるのですか」と言ってイエスさまから逃げ出そうとしました。絶対的な正義であるイエスさまの権威の前に立ち続けることができなかったからです。

さて、私たちはイエスさまの権威を前にして、どのような反応を示すでしょうか。今日の箇所の人々にように、驚くだけで、人生をイエスさまにささげてついて行こうとはしない、ただの傍観者になるでしょうか。あるいは、圧倒的な権威を前に、自分はイエスさまに裁かれるのではないかと恐れ、イエスさまの前から逃げ出そうとするでしょうか。

今日ここに集っている私たちは、そのどちらでもない、第三の反応を示していきたいと思います。どのような反応でしょうか。それは、イエスさまの権威を素直に認め、受け入れ、その権威の前に服すという反応です。イエスさまを私たちの主、神の国の王として礼拝するということです。それこそが、イエスさまの権威を前にして私たちがとっていきたい反応、進んでいきたい道です。

今日はこの後応答の賛美で「世にあるかぎり」という曲を歌います。一番の歌詞を先にお読みします。「世にある限り仕えまつらん。この身に近く主よましませ。戦いもなど恐るべしや、導く御手にすがりゆく身」。この曲はイエスさまの権威に従う道がどのようなものであるかをよく言い表しています。「戦いもなど恐るべしや、導く御手にすがりゆく身」。イエスさまの権威に従う私たちは、この世の様々な戦いを恐れる必要はありません。イエスさまがその権威によって、すでに悪に打ち勝ってくださったからです。そして私たちを悪の支配から解き放ってくださったイエスさまは、その権威によって打ち立てた神の国の新しい生き方へと私たちを招いてくださっているのです。ですから私たちは今朝、そのイエスさまの権威を前にして、「世にある限り仕えまつらん」と改めて告白していきたいと願います。そしてこの世界を治めておられるイエスさまの権威の下で、御手に導かれながら、今週1週間も主に仕える歩みを送っていきましょう。

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