マルコ4:1-20「聞く耳のある者は聞きなさい」

 マルコの福音書の説教も今日から第4章に入ります。これまで123章とイエスさまの宣教の様子を見てきましたが、その中で人々は様々な反応を示してきました。ある者はイエスさまの御言葉に応答し、キリストの弟子となりました。ある者は弟子になるまではいかなくとも、自らが癒されることを願い、イエスさまの周りに集まりました。またある者たちはイエスさまに対して敵対心を抱き、イエスさまを殺す計画まで立て始めました。語られていたことは同じです。彼らはみな同じイエスさまの御言葉を聞いていた。けれども、反応は様々。すると、自ずとこのような疑問が湧いてきます。同じ御言葉が語られているのに、なぜここまで反応が分かれるのか。その疑問に答えているのが、今日のたとえ話です。

ただここでイエスさまが語っておられるたとえ話は、今の私たちの世界で一般的に言われる「たとえ」とは少し違った性質をもっているように思います。どういうことか。「たとえ」というのは一般的に、ある物事を分かりやすく説明するために、他の物事を引き合いに出して説明する時に使われます。ですから通常「たとえ」というものは、相手によりよく理解してもらうために使われるものです。けれども今日の箇所を読んでいると、どうもイエスさまはそういった「たとえ」の用い方をしていないように思える。たとえば11節でイエスさまはこのように言っています。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。」ここで使われている「内」と「外」の対比は、私たちが先週まで開いていたマルコ3章から続いているものです。これを読む限り、イエスさまは「外の人たち」に対して神の国の奥義を隠すために、あえて「たとえ」を用いられたということが分かります。実際、ここで使われている「たとえ」という言葉は、元々「なぞ」という意味ももっている言葉です。御言葉を求めて神の家族の中に入り、イエスさまの周りに集う者には直接真理が語られるけれども、御言葉を求めず、家の外に立ち続け、自分の立ち位置を変えようとしない者には、「なぞ」、すなわちあえて分かりにくい方法で真理が語られる。それこそがイエスさまの用いられた「たとえ」の特徴でした。

けれども、そこで私たちはこのように思うのではないでしょうか。「それではあまりにも不公平じゃないか」。確かにそうです。御言葉を求めない人々がいるなら、さらに分かりやすく語ればいいじゃないかと思います。けれども、イエスさまはあえて「たとえ」「なぞ」を用いられた。なぜでしょうか。ここで私たちは今日示されているイエスさまのことばに注目したいと思います。福音書の中にはイエスさまが語られたたとえ話が多く記されていますが、そういったたとえ話を解釈する時に大切になるのは、その始まりのことばと結びのことばに注目することです。そこにたとえ話を解釈する鍵が隠されています。今日の場合はどうでしょうか。3節冒頭「よく聞きなさい」、そして9節後半「聞く耳のある者は聞きなさい」。すぐにお分かりいただけるかと思いますが、このたとえ話を解釈する鍵になるのは「聞く」ということです。

イエスさまは何よりも人々に「聞く」ことを求めておられる。それを理解すると、なぜイエスさまが「たとえ」「なぞ」を用いられたのかが分かってきます。みなさんは「なぞなぞ」はお好きでしょうか。誰もが知っている古典的な言葉遊びです。今回調べてみたところ、日本のなぞなぞは古くは奈良時代の万葉集にまで遡るようです。また日本に限らず、なぞなぞは世界中の文化に存在しています。なぜなぞなぞはそこまで人気なのかというのを考える時、やはりそれが解けた時の驚きが人々を惹きつけていくということがあると思います。そしてそれは、イエスさまが用いられた「たとえ」「なぞ」とも共通しています。一見ただの単純なストーリーに見える「たとえ」も、よく耳を凝らして、その世界に入り込んでいくのならば、やがてその奥に隠されている真理にたどり着くことができる。その時私たちは驚きを経験します。そしてその驚きは、自分はこの真理に生きていくのか、生きていかないのかという決断を私たちに迫ってくる。それこそが、イエスさまの意図でした。イエスさまは「たとえ」「なぞ」を用いることによって、人々が今いるところから自らの意志で一歩を踏み出し、悔い改めと信仰の決断に進むことを願っておられたのです。だからイエスさまは「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と、「聞く」ことを繰り返し人々に求めたのです。

しかし、単純に「聞きなさい」と言っても、実際に大事なのは私たちがどう聞くのかということです。ここでイエスさまが言っておられる「聞く」とは、当たり前のことですけれども、単純に音声が耳に入るようにするということではありません。イエスさまは明確にある一つの聞き方を求めておられます。その聞き方とは何でしょうか。それは今日の箇所の20節で明らかにされています。20節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです」。大事なのは、御言葉を聞いて「受け入れる」ということです。これはつまり、イエスさまのことば、御言葉を、単なる言葉ではなく、自分に向けて語られた「ことば」として受け取るということです。

御言葉を自分に語られた「ことば」として受け取る。これはなかなか難しいことです。毎週礼拝の説教を聞く中でも、「今日はいまいちピンと来なかったな」と思う日はみなさんおそらくあると思います。もちろんそれは説教者である私の責任もあるわけですが、たとえどんな名説教家の説教を聞いていても、ピンと来ない時というのはあると思うのです。それは聖書を読んでいても同じです。私と妻は今聖書通読で民数記を読んでいるのですが、何部族が何人というのが延々と続く箇所を読んでいるとどうしても、「これって読んでも意味があるのかなぁ」と思ってしまいます。それは半分冗談ですけれども、御言葉を自分に語られている「ことば」として受け取るのはなかなか難しいことです。その時その場ではすぐには分からないことも多くあるかもしれません。「なぞ」としか思えない説教、あるいは聖書のことばもあるかもしれません。しかしたとえそうであっても、イエスさまはこの御言葉を通して自分に何かを語りかけているはずだと信じ、御言葉の世界に一歩ずつ足を踏み入れていくならば、そこには想像を超える、三十倍、六十倍、百倍の豊かな実りが待っているのだとイエスさまは語ります。それはつまりどういうことか。語られている御言葉は同じでも、それを自分に語られているものとして聞き、受け取るかどうかで、すべてが変わってくるということです。もしそれを自分に語られているものとして受け取らないのであれば、残念ながら神の国の奥義は隠されたままになってしまいます。しかしそれを自分に語られている神のことばとして受け取るのであれば、そこには豊かな祝福の世界が待っているのです。

そこで問われるのは、私たちの聞き方です。今日のたとえの中では、実を結ばない聞き方として三つのものが示されています。一つ目は、道端に蒔かれたものの聞き方。御言葉が耳に入ってきても、すぐにそれがサタンによって取り去られてしまうため、後には何も残りません。二つ目は、岩地に蒔かれたものの聞き方です。初めは喜んで熱心に御言葉に聞くけれども、何か自分に都合の悪いことが起こると、すぐにつまずき、耳を塞いでしまいます。そして三つ目は、茨に蒔かれたものの聞き方。御言葉を聞きはするけれども、日常のこと、他に関心のあることで頭がいっぱいになってしまって、御言葉に生きるところまではいかない。中途半端な聞き方です。

このように見ていると、私自身ギクリとさせられるところが大いにあります。2000年前も今も、御言葉に対する人の姿勢というのは変わらないのだと思い知らされます。あるいはこのたとえ話を読みながら、自分の御言葉への姿勢を責められているように感じる方もおられるかもしれません。こんな自分じゃんダメだ、このままではいずれイエスさまから見放されてしまうのではないか。

しかし、そこで私たちが今一度立ち戻りたいのは、「よく聞きなさい」というイエスさまの招きです。種を蒔く人は、すべての種が芽を出し、実をならせることを期待して種を蒔きます。この種は実らなくていいやと思って種を蒔く人はいません。それと同じように、イエスさまは私たちが御言葉に聞き、それを自分に語られている「ことば」として受け入れ、豊かな実をならせることを願い、御言葉を語り続けておられます。それは単に礼拝の説教だけではありません。聖書の言葉を通して、デボーションを通して、賛美を通して、祈りを通して、読書を通して、映像を通して、あるいは信仰の友との語らいを通して、イエスさまは語り続けておられます。私たちは自分の力で種をゲットしにいくのではありません。イエスさまご自身が、私たちが聞くことを願い、御言葉の種を蒔き続けてくださっているのです。ですから、私たちに求められていることはただ一つ、御言葉に聞くことです。イエスさまによって耕されやすい「良い地」として御言葉に聞き、自分に語られている「ことば」としてそれを受け入れていく。そこには私たちの想像を遥かに超える豊かな祝福が待っています。

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