マルコ2:23-28「真の安息」

 

安息日規定

今日の箇所はある安息日に起きた出来事について記しています。ただしこの出来事、実際に想像してみるとなかなかショッキングな光景に思えます。田舎臭く、どこか薄汚れていて、空腹に喘いでいるおじさんたちが、通りすがりの他人の畑に入っていき、寄ってたかって麦の穂を摘み、それを喜んで食べている。現代だったら通報されてもおかしくない状況です。けれども実はこの弟子たちの行為は、当時のユダヤでは律法に適ったものとして一般的に認められていました。これは申命記にある律法なのですが、そこでは他の人の畑の麦を鎌で刈ってはいけないけれども、手で摘む程度なら自由にしてよいということが書かれています。おそらく貧しい人のために定められた律法だと思いますが、それはこのイエスさまの時代でもしっかりと守られていました。ですので、今日の箇所で問題となっているのは、弟子たちが麦を盗み食いしていたということではなく、それを安息日に行っていたということです。

ここで安息日の制度について少し確認しておきましょう。聖書の中で言う安息日とは、今のユダヤ教もそうですが、週の最後の日、金曜日の日没から土曜日の日没までの1日のことを指しています。そして十戒の第四戒には「安息日に仕事をしてはならない」とありますが、ユダヤ人たちはその掟を確実に守るために、そこで言う「仕事」とは何なのかというのを細かく規定していました。そのリストには39の行為が書かれているのですが、中には「爪を切ってはならない」、「二文字以上書いてはならない」といったものがあるようです。そしてそのリストの3番目にあったのが「刈り入れ」の禁止でした。麦を手で摘むのは刈り入れに入るのかなと少し疑問に思いますけれども、熱心に厳格に律法を守っていたパリサイ派の人々の基準からすれば、弟子たちの行為は明らかな律法違反でした。ですからパリサイ派の人々は弟子たちの師匠であるイエスさまに対して、「なぜあなたはこのような律法違反を見過ごしているのか」と迫ってきたというのが今日の箇所です。

ここで少し余談ですけれども、実は現代でも熱心なユダヤ教徒はこういった安息日規定を厳格に守っています。私が以前イスラエルを訪れた際に特に印象に残っているのはエレベーターです。イスラエルの建物には大体2種類のエレベータが並んでありまして、一つは普通のエレベーター、もう一つは「シャバット・エレベーター」と呼ばれています。この二つのエレベーターは普段は何も変わらないのですが、安息日になると「シャバット・エレベーター」の方は何もしなくても自動的に各階に止まるようになります。それはなぜかと言いますと、エレベーターのボタンを押すという行為が律法で言う「仕事」にあたると彼らが考えているからなのです。ですから敬虔なユダヤ教徒は安息日になると普通のエレベーターではなく、「シャバット・エレベーター」を使うということなのです。私たちからするとなかなか理解できないルールですが、敬虔なユダヤ人にとっては、それが自分たちの信仰の証しであり、神の選びの民であるユダヤ人としてのプライドに関わってくるものなのです。

 

安息日の真の目的

さて、話を戻しましょう。パリサイ派の人たちからの批判に対して、イエスさまは25-26節で旧約聖書の物語を引用しながら答えていきます。これは旧約聖書の第一サムエル記21章に書かれている出来事です。この出来事自体は単純なもので、ダビデを殺そうとしていたサウル王から逃げていたダビデは、道の途中でお腹が空き始めたため、供の者たちと一緒に祭司以外は食べてはならないとされていたパンを食べたというものです。これが安息日と何の関係があるのかと私たちは思いますが、ここで重要なのは、イエスさまがご自分をダビデ王に例えているということです。イスラエルの理想的な王様とされているあのダビデ王はあの時明らかに律法の規定を超えることをしたけれども、そのことを聖書は何も咎めていない。それならば、ダビデの子孫で、イスラエルの真の王、メシヤであるこの私と一緒にいる弟子たちが律法の規定を超えることをして責められるというのはおかしなことではないか。旧約聖書の権威に訴えるというのは当時のラビたちの議論の仕方でしたから、イエスさまはそのようにダビデ王の物語を引き合いに出すことによって、自分はそのダビデを超えるイスラエルの真の王、メシヤであるということをはっきりと宣言されたのです。

そしてイエスさまはその結論として、このように言われます。27-28節「そして言われた。『安息日は人のために設けられたものです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。』」ここでイエスさまは安息日の真の目的を明らかにしています。安息日と言うのは本来「人のために設けられたもの」。これは要するに、安息日というのは本来神さまが祝福として、喜びとして人間に与えてくださったものだということです。仕事というのは人間が生きるために必要なことです。しかし安息日にはそれをあえてやめることによって、人は自分の力で生きているのではなく、神さまの御手の中で養われ、生かされていることを知り、そこから真の平安を得ていく。自分の力で握りしめていたものを手放し、肩の力を抜き、御手の守りの中で安心して息をしていく。それが本来の安息日の目的でした。けれどもパリサイ派の人々はその熱心さのあまり、そのような本来の目的から外れ、「安息日を守る」という掟そのものを自己目的化してしまっていました。そして彼らはその目的を守るために、これをしてはけない、あれをしてはいけないという風に「してはいけない」ことばかりを追求し、自分たちを縛る掟を自ら作り出し、その中で「安心して息をする」ということができなくなっていました。ですからイエスさまは、「それではまるで人が安息日のために造られたようなものじゃないか。安息日の本来の目的を思い出しなさい」と言われたのです。

そしてイエスさまは最後に「人の子は安息日にも主です」と仰いました。「主」というのは「権威がある」ということです。これまでマルコの福音書を読んでくる中で、イエスさまの教えには権威があるということ、またイエスさまには罪を赦す権威、病を癒し、悪霊を追い出す権威があるということが順に明らかにされてきましたが、ここでイエスさまは安息日律法の解釈と適用においてもご自身が権威をもっておられることを明らかにされたのです。イエスさまこそが真の安息の何たるかを語ることができる。なぜか。それは、イエスさまが安息日を定めた神さまご自身だからです。

 

教会と安息

最後に私たちは、ここでイエスさまが示している真の安息について考えたいと思います。聖書はイエスさまがもたらしてくださった「救い」を様々なことばを用いて説明していますが、その中の一つに、この「安息」というものが出てきます。先ほど、安息というのは自分の働きをやめ、全てを神さまに委ねることによって、自分が神さまの御手の中で生かされていることを知り、その中で平安を得て、安心して息をしていくことだと申し上げました。聖書は、そのような安息に入ることが救いであると語っています。それはつまり、神の国には真の、そして永遠の安息が存在しているということです。イエスさまはこの地上に神の国をもたらすことによって、真の安息をもこの地上にもたらしてくださった。そして、そのような真の安息の前味を味わう場所として、神さまは私たちに教会を与えてくださいました。前味ですので、私たちが永遠の安息に入るためには、イエスさまの再臨と神の国の完成を待たなければいけません。けれども私たちは教会に集い、共に神さまを礼拝することによって、主にある真の安息の前味を味わうことが許されているのです。

教会には真の安息がある。私はこの港南福音教会に来てそれを改めて思い出すことができました。私は今年の1月にこの教会に初めて来て、その時に鴇田先生からこの教会の歴史やこの教会が大切にしてきたことを色々と伺いました。その中で一番強く私の印象に残ったのは、「心のオアシスなる教会」という言葉でした。「心のオアシス」、それはまさしく主にある真の安息を表す言葉です。そして会堂の横に大きく掲げてある、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」という御言葉。これはまさに主にある真の安息への招きのことばです。「この教会は主にある真の安息の前味を味わいながら、永遠の安息、神の国の完成に向けて歩んでいる教会なんだ」、私はそのように思いました。そしてそのような教会の姿をこれからも大切にしていきたいと強く思いました。

教会には真の安息がある。そのような教会の姿をこの世界に示していくためには、誰よりもまず私たちがその安息の中を生きている必要があります。時に私たちはパリサイ人たちのように、自分たち自身に「律法」を課してしまうことがあるかもしれません。「礼拝に行かなければいけない」、「奉仕をしなければいけない」、「教会ではいい人でいなければいけない」、そのような「律法」は私たちを縛り、私たちから安息を奪っていきます。けれどもイエスさまはそのような「律法」の世界、「ねばならない」の世界から私たちを解放し、真の安息をもたらしてくださったお方です。そしてそれだけでなく、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」と、私たちを真の安息へと招き続けてくださっています。私たちはそのようなイエスさまの招きを受けて、教会に集っているのです。ですから私たちは肩の力を抜いて、全てを神さまに委ねながら、主がくださる平安の内に、安心して息をしていきたい。そしてこの安息に一人でも多くの人々を招き入れていきたい。教会には真の安息がある。安息日の主なるイエスさまは、今日も私たちを安息の内に生きるようにと招いてくださっています。

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