マルコ3:1-6「いのちを活かす神の国の働き」

 

先週に続き、今日の箇所でも「安息日」がテーマになっています。ユダヤ人にとって安息日というのはそれほど大切なものでした。先週私たちは、安息とは自分の働きをやめ、自分の生活といのちのすべてを神さまに委ねることによって得る真の平安であること、そして神の国にはそのような真の安息があるということを確認しました。イエスさまによって神の国がもたらされた今、私たちは真の安息の中を日々生かされながら、終わりの時にもたらされる永遠の安息を待ち望む歩みを送っているのです。

 

安息日とは

また、先週私たちは当時のユダヤ人がどのように安息日を守っていたのかということも確認しました。彼らは安息日を何としても守るために、様々な細かい規定を定めて、自らを掟でがんじがらめにしていたのでした。そこで今日私たちはまず、そもそも旧約聖書は安息日に関して何と言っているのかを初めに確認したいと思います。旧約の中には安息日に関する律法がいくつかありますが、やはり一番大事なのは十戒の規定です。共に開いて確認したいと思います。出エジプト記208-11節です(旧135)。ここで特に注目したいのは11節です。ここでは神さまの創造の御業が安息日を守る根拠とされています。人は自らの働きをやめ、神さまの御業に思いを向けることによって、自分、そして世界の全てが神さまの御手の中にあることを思い起こし、その神さまに全てを委ねることによってこそ真の安息が得られるということを身をもって経験していく。ここでは先週私たちが確認したような安息日の目的が示されています。

ただ、旧約の中にはもう一箇所、十戒が記されている書があります。こちらも共に開きましょう。申命記512-16節です(旧324)。前半部分は出エジプト記の十戒とほとんど変わりませんが、後半は少し違った観点から安息日の目的が示されています。注目したいのは14節の終わりからです。「そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。」この申命記の十戒では、自らが安息を得ることだけでなく、他の人、特に弱い立場にある人々にも安息をもたらすことが目的とされています。その理由は15節に書いてあります。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。」かつてエジプトの地で奴隷だったイスラエルの民は、主によって贖われ、奴隷状態から解放されました。ですから彼らは主によって贖われ、解放された者として、弱い立場にある人々に配慮し、彼らのいのちを活かす働きをしていくようにと命じられているのです。安息日は本来、このように他の人のいのちを活かすことが大切な目的の一つでした。前置きが長くなりましたが、今日のマルコの箇所でイエスさまはまさにそのような、人のいのちを活かすという安息日の真の目的を明らかにしておられるのです。

 

イエスさまの怒りと嘆き

それでは今日の箇所の内容を見ていきましょう。舞台は安息日の会堂です。そこには片手の萎えた人、つまり片手が麻痺している人がいました。すると2節「人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた」とあります。この「人々」というのは6節を見ると分かるように、パリサイ人たちのことを指しています。パリサイ人たちの口伝律法、掟によれば、安息日であっても命に関わる怪我や病気の治療をすることは許されていました。出産の手伝いをするのも許されていたようです。ですが、手の麻痺というのは生死に直結する問題ではありません。ですからこの緊急性のない障害を癒すというのは彼らの律法的には許されないことでした。ただ、パリサイ人たちはイエスさまならきっと安息日であってもこの男を癒すに違いないと睨んだのでしょう。彼らはイエスさまを訴える口実を逃すまいと、イエスさまの様子をじっと見ていたのです。

ここに私たちはパリサイ人たちの問題を見ることができます。彼らにとって大事だったのはイエスさまを訴えることであって、彼らにとって手の萎えた人の存在はそのための手段、道具でしかありませんでした。彼らは手の萎えた人を一人の生きた人格として見ていなかったのです。彼らが熱心なのは結構なことです。けれども彼らが大義名分をかかげ、その熱心を振りかざしていた中で、一人の人のいのちが、存在が蔑ろにされていたのです。

このようなパリサイ人たちの問題を見る時、私たちは今の世界の問題にも目を向けざるを得ません。経済再生の名の下に拡がっていく貧富の格差、積極的平和主義の名の下に蔑ろにされていく一人ひとりのいのち、自国ファーストの名の下に虐げられていく外国人や移民。あるいは教会も例外ではないかもしれません。聖書を振りかざして他の人を裁き、傷つける私たち。毎週礼拝に集い、熱心に奉仕をしながらも、すぐ隣で苦しんでいる人に手を差し伸べることをしない、いやそもそもそれに気づきもしない私たち。パリサイ人たちが抱えていたこの問題を、私たちは決して他人事として見過ごすことはできないのではないでしょうか。

5節「イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら」。大義名分の下に一人の人のいのちが蔑ろにされている状況をイエスさまは怒りをもって見ておられました。そして何度指摘しても変わることのない彼らの心の頑なさに嘆き悲しまれた。そしてパリサイ人たちに言われたのです。4節「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」この問いに対する答えは明らかです。けれどもパリサイ人たちは答えることができずに「黙っていた」とあります。イエスさまの言っていることは正しいと分かってはいても、その心の頑なさゆえに自分たちの非を認めることができず、伝統と掟で自らをさらに縛っていくことしかできなかったのです。確かに手の麻痺は今すぐ命に関わる問題ではありません。次の日まで待って癒した方がイエスさまもその後より安全に活動できたでしょう。しかしイエスさまはその愛と憐れみ深さゆえに、目の前で一人の人格が、いのちが蔑ろにされている状況に対してあえて行動を起こすことを選ばれたのです。イエスさまはそうすることによって、人のいのちを活かしていくという安息日の真の精神、目的を明らかにされたのです。

 

神の国の働きへ

先週、安息日は永遠の安息がある神の国を指し示しているということを確認しました。神の国とはどのような世界でしょうか。私の尊敬するある牧師は、神の国とは「全ての人が活かされて共に喜んでいる平和な世界」であるとよく説明しています。「全ての人が活かされて共に喜んでいる平和な世界」。これこそまさに、安息日が指し示している世界です。そしてイエスさまは「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」と問いかけることによって、そのような神の国を建て上げる働きへと私たちを招いておられます。「善を行うこと」、「いのちを救うこと」、目の前にいる一人の人格を重んじ、一人ひとりのいのちを活かしていくこと、それが神の国を建て上げる働きとなっていくのです。

パリサイ人たちはそのようなイエスさまの招きを受けたにもかかわらず、その心の頑なさゆえにイエスさまの招きを拒否し、逆にイエスさまを殺す計画を立てていくという「悪を行う道」、「人を殺す道」に進んでいきました。何とも皮肉なことです。

私たちはどうでしょうか。イエスさまを信じた私たちは、イエスさまによってもたらされた神の国に入れられ、その永遠の安息の始まりに生かされています。けれども、私たちのゴールは自分たちだけが永遠の安息に与ることではありません。イエスさまによって救われた者として、永遠の安息の始まりに生かされている者として、他の人を神の国の安息へと招いていく。人のいのちを活かす神の国を拡げていく。それが私たち教会に与えられている使命です。それはまず何よりも、人を真の意味で活かすこの礼拝の場に人々を招くということを意味します。神の民が一つになって神さまの御前に出るこの礼拝の中でこそ、神のかたちとしての人の尊厳が回復され、人は本当の意味で活かされていくからです。けれども人を活かしていく神の国の働きは教会の建物の中に留まるものではありません。私たち一人ひとりが神さまによって遣わされている場所、ある人にとっては職場、ある人にとっては家庭、あるいは学校、地域、私たちがそれぞれ置かれている場所こそが神の国の最前線です。そしてその神の国の最前線で、目の前にいる一人の人格を重んじ、一人ひとりのいのちを活かしていくというイエスさまの働きに私たちが加わる時、そこから神の国が、主にある真の安息が拡がっていくのです。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」。イエスさまにいのち救われ、安息に入れられた者として、人のいのちを活かすイエスさまの神の国の働きに加えられていきたいと願います。

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