創世記12:1-9「約束の地を目指して」

 

2月の教会総会で、今年度は原則毎月の第一主日に年間目標に関連する箇所から説教をすると申し上げましたが、先週はちょうどイースターでしたので、今月は代わってこの第二主日に年間目標に関する説教をいたします。年間目標、みなさん覚えておられるでしょうか。「先立って進まれる主とともに」ですけれども、今朝は創世記121-9節のアブラムの物語から、「先立って進まれる主」に信頼する歩みとはどのようなものなのかについて、みことばに聴いていきたいと思います。

 

アブラムという人物

まずは、アブラムについての基本情報を確認します。今朝の聖書箇所には含めませんでしたけれども、1127-32節にはアブラムの背景情報が書かれています。その説明によると、アブラムはテラという人の子どもとして、カルデア人のウルという場所で生まれたとあります。これは今でいうイラク南部に当たる場所です。そして31節を見ると、アブラムも含めたテラの一族は、ある時ウルを離れて、ハランという場所に移り住みました。このハランという場所は今のトルコにある町で、今もそのまま地名が残っています。アブラムの時代にはメソポタミアを代表するような大商業都市だったようです。そしてそれに加えて、ハランは偶像礼拝に溢れている場所でもありました。当時メソポタミアの多くの地域では「シン」という月の神が崇められていたようでして、ハランにはその月の神シンの礼拝所があったようです。

その異教の地ハランで、唯一真の神さまがアブラムに現れたというのが12章です。121節「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』」。アブラムは元々唯一真の神さまを知っていたのか、そうであればいつ神さまと出会ったのか、なぜ神さまはアブラムを選んだのか、聖書は語っていませんので、詳細は分かりません。けれどもこの神さまとアブラムの出会いから、アブラムの信仰者としての人生、「先立って進まれる主」に信頼する歩みが始まっていったわけです。

 

主に従う困難

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」。原文の語順では「あなたは行きなさい」ということばから始まる、単純ではっきりとした命令です。けれどもこの神さまの命令に従うということは単純ではありませんでした。

そこには大きく分けて二つの困難がありました。一つ目は、「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて」という部分です。ここでは「土地」→「親族」→「父の家」と、離れるべき対象の範囲が段々と狭められています。この後の創世記を読んでいくと、アブラムの本家はずっとハランにあったことが分かります。たとえば、アブラムは息子イサクのお嫁さんを親戚の中から探すために、しもべをハランに遣わしました。そこに親戚がみんないたからです。また、アブラムの孫ヤコブは兄エサウを騙した後におじラバンのもとに逃げますが、そのラバンがいたのもハランでした。アブラムの一族はみんなハランに住み続けていた。その中で、自分だけが故郷を、自分の一族を離れなければいけない。現代は人の行き来が盛んですから、故郷を離れるのは決して珍しいことではなくなりましたが、この時代は何千年も昔の古代です。親族を置いて故郷を離れるというのは、人生の一大転機になったことでしょう。親不孝者と罵られることもあったかもしれません。土地、親族、父の家を離れるというのはそれだけ大きなことでした。

けれども、それを超える困難が神さまの命令にはありました。それが二つ目、「わたしが示す地」という部分です。これが仮に「どこどこのあの場所に行きなさい」という命令であれば、まだ決断しやすかったはずです。事前に下調べをして、神さまが行くように命じておられる場所はどんな場所か、気候はどうか、治安はどうか、そこの住民は親切かどうか、そういったことを考えた上で判断することができたことでしょう。でも神さまはそうはなされませんでした。具体的な場所は示さず、ただ「わたしが示す地へ行きなさい」とだけ命じました。それはなぜでしょうか。神さまへの徹底的な信頼、信仰を求めたからです。示されている場所がどのような場所かは皆目見当がつかない。目に見える生活の保証は一切ない。それでもあなたはわたしに信頼をするか。それが神さまの求められた信仰でした。

では、アブラムはその神さまのことばにどのように応えたか。4節「アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った」。そこに迷いはなかったのか、葛藤はなかったのか、聖書は語りません。聖書が記しているのはただ、「主が告げられたとおりに出て行った」というアブラムの決断の結果だけです。アブラムは神さまの招きに信仰をもって応え、決断し、行動に移した。これが信仰の父と呼ばれるアブラムの姿です。

 

「旅人」と「放浪者」

このようなアブラムの姿を、周囲の人々はどのように見たでしょうか。「旅人」と「放浪者」ということばがあります。「旅人」と「放浪者」、重なる部分もありますが、そこには大きな違いがあります。その違いとは、「目的」があるかどうかです。「旅人」の場合は明確な目的があります。どこどこに行くため、誰々に会うため、これこれをするため、というように、そこには目的を達成するというゴールがあるわけです。それに対して「放浪者」には目的がありません。あるいは放浪すること自体が目的と言うこともできるでしょうか。当てもなく、これといった目的もなく、たださまよい続ける。それが「放浪者」です。

「旅人」と「放浪者」、周囲の人々からしたら、アブラムはどちらの存在に見えたでしょうか。おそらく「放浪者」に見えたと思うのです。行く場所、はっきりしません。神さまが示す場所?自分たちには月の神シンがいるじゃないか!親族を捨てて、どことも分からない場所に行くなんて、お前は一体何がしたいんだ!周囲の人々には理解できなかったはずです。そして5節以降を見ると、アブラムはカナンの地に入った後も、シェケムに行ったり、ベテルの東にある山に行ったり、ネゲブに行ったり、住む場所は定まりません。周りからしたら、ただ当てもなくさまよっているように見えたはずです。「放浪者」、それが周囲の人々から見たアブラムの姿だったことでしょう。

けれども、神さまの目には違いました。新約聖書をともに開きましょう。ヘブル人への手紙118節からです。8節「信仰によって、アブラムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました」。少し飛んで13節「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」。そして16節「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです」。神さまの目に、アブラムは「天の故郷」「約束の地」を目指して歩んだ「旅人」でした。そして神さまからの招きに応え、「約束の地」を目指す歩みを始めたアブラムを、神さまは「信仰の人」として認め、義と認められたのです。

聖書以外でも、「人生は旅である」ということがよく言われます。いい言葉だなと思います。旅のように、人生には様々な出会いがあり、時にはハプニングがありながらも、それを乗り越えて前進していく。いいたとえです。けれども「人生は旅」と言う場合、人々はどこを目指して旅をしているのでしょうか。幸せを求めるためでしょうか。けれども最後には必ず死が待っています。では死を目指して生きているのでしょうか。そうではないはずです。死ぬために生きると言うのもおかしな話です。生きる目的も分からず、その時その場の幸せを求めてあちらこちらをさまよい歩いていく。それは「旅人」というよりも「放浪者」に近い姿ではないでしょうか。

しかし、唯一真の主に出会う時、人は「放浪者」から「旅人」に生まれ変わります。周りからは理解されないのかもしれません。大きな犠牲を払わなければいけないかもしれません。その先の歩みも決して楽なものではないでしょう。多くの困難がつきまとうかもしれません。しかしそれでも、「わたしが示す地へ行きなさい」、この主の招きに応え、信仰をもって一歩踏み出す時、私たちは生きる目的を得た「旅人」に生まれ変わるのです。

 

結び:広がる祝福

そして神さまは、「旅人」に生まれ変わった者に、豊かな祝福を用意してくださっています。創世記122-3節「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」。この豊かな祝福は、自分一人だけで終わるものではありません。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」とあるように、一人の信仰の決断と旅立ちが、やがて全世界に主の祝福をもたらしていくことになるのです。このスケールの大きさを私たちは最後におぼえたいと思います。主にある旅人として一歩踏み出していく、先立って進まれる主とともに一歩踏み出して行く、その一歩はやがてこの世界全体への祝福へとつながっていくのです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」。神さまは今日も私たちを信仰の旅路、「旅人」の歩みへと招いておられます。

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