マタイ1:18-25「神が私たちとともにおられる」

 

見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。教会のクリスマスでは毎年のように朗読される有名な箇所です。「インマヌエル」は元々ヘブル語で、「イム」が「ともに」、「ヌー」が「私たちと」、そして「エル」が神。それが一つにつながって、「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」ということばになりました。クリスチャンにとっては聞き慣れたことばです。あるいは普段の祈りや会話の中でも、「神さまがともにいてくださるから大丈夫」と口にするように、この「インマヌエル」ということは私たちの信仰の根幹をなしていると言えると思います。

 

「インマヌエル」がない?

ある意味「当たり前」になっているこの「インマヌエル」。では、そうではない世界をみなさんは想像したことがあるでしょうか。「インマヌエル」が当たり前ではない世界、神さまがともにいない世界を想像したことがあるでしょうか。2000年前、イエス・キリストが生まれる前の世界は、まさにそのような世界でした。神さまがともにいない世界だった。

何も初めからそうだったわけではありません。神さまはこの世界を創造されたとき、ともに喜び生きる存在として人間を創造されました。ご自身のかたち、神のかたちである人間とともに生きていきたい、それが神さまの願いでした。神さまご自身が誰よりも「インマヌエル」を望んでおられました。

しかし、それを阻んだものがあります。人間の罪です。神さまは聖なるお方です。ですからその聖なる神さまが人間とともにいるためには、人間も聖なるものである必要があります。そうでなければ、神さまとともにいることも、神さまに近づくこともできません。神さまの聖というのはそれほどすごいものだからです。ですから旧約聖書の中で神さまは繰り返し、繰り返し「聖なる者になりなさい」「聖なる者になりなさい」とイスラエルの民に語りかけ続けました。神さまはご自身の民と一緒にいたかったからです。ともに歩んでいきたかった。

しかしいくら神さまが熱心に語りかけようと、イスラエルの民はそれを無視し、偽りの神、偶像に走り続けました。自らを罪で汚し続けたのです。神さまは豊かな憐れみをもってそれを忍耐し続けました。繰り返し、繰り返し、「悔い改めてわたしのところに帰ってきなさい。もう一度一緒に歩んでいきたいんだ」と預言者たちを通して語り続けました。けれども一向に悔い改めず、罪で自らを汚し続けるイスラエルの民。その結果、聖なる神さまはとうとうイスラエルの民の内から離れざるを得なくなりました。彼らの罪深さゆえに、ともにいることができなくなってしまった。それが目に見える形で現れたのがバビロン捕囚でした。二週間前に見たマタイ1章前半の系図は、まさにそのような歴史を赤裸々に綴っています。

 

暗闇の世界

もう神さまは私たちとともにおられない。神さまがいない世界。それがどれほど恐ろしいことか、想像してみてください。旧約聖書の詩篇には、神さまがともにおられない世界でもがき苦しんでいる神の民の叫び声が多く記されています。例えば先週交読でともに読んだ詩篇44篇にはこうありました。23節からお読みします(旧978)。「起きてください。主よ、なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。なぜ、御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか。私たちのたましいは、ちりに伏し、私たちの腹は地についています。立ち上がって、私たちをお助けください。御恵みのゆえに、私たちを贖い出してください」。

これは、神さまがともにおられない世界でもがき苦しんでいる神の民の声です。「助けてください」と神さまを呼び求めても、そこに神さまはおられない。苦しみの声が虚しく空に響くだけ。神さまのことばを語る預言者さえももういない。「神さま、あなたは私たちのことを忘れてしまったのですか」、そう思わざるを得ない。イザヤやエレミヤなどの預言者たちが以前語っていた、いつか神さまは戻ってきてくださるという預言。いつ成就するとも分からないその預言に一縷の望みを託しつつ、ひたすら胸を打ち叩き、自分たちが犯した罪を嘆き、悔い改め続けるしかない。まさに暗闇です。神さまがともにおられない。これがいかに恐ろしいことか、まず私たちは心に刻む必要があります。そうでなければクリスマスは理解できません。暗闇を照らす真の光が来た、その素晴らしさを理解するためには、まずは暗闇の深さを知らなければいけません。神さまがともにおられない。それが旧約聖書、そしてマタイ1章の系図を覆っていた暗闇でした。

 

神さまの決断

しかし、神さまは諦めておられなかった。ご自身の民を忘れてはおられなかった。それがクリスマスの出来事です。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」。ご自身の民の罪深さゆえに、民の内から離れ去れざるを得なかった神さまがこの時、イエス・キリストという人のかたちをとって、目に見えるかたちでご自身の民の暗闇のど真ん中に来てくださった。これは神さまの大きな決断です。すべては、ご自身の民と何とかして一緒にいたい、ともに歩みたいと願われた万軍の主の熱心によります。

けれども、そのままでは神さまはご自身の民とともにいることができません。何度も申し上げているように、罪にまみれた人間は聖なる神さまとともに歩むことも、近づくこともできないからです。ですから、御使いはこう語りました。21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」。この罪からの救いなしに、「インマヌエル」は決して成り立ちません。「インマヌエル」が実現するためには何よりも「罪からの救い」が必要だった。ここですでに、イエスさまの十字架の御業が指し示されているのです。

このイエス・キリストの存在によって、私たちは今神さまとともにいることができている。「神さま」と呼びかければ、すぐそばで応えてくださるお方がいる。私たちの祈りを聴いてくださる方がいる。「インマヌエル」がついに実現したのです。だから私たちはこのクリスマスのとき、ともにいてくださる神さまの愛と憐れみの豊かさを改めておぼえ、この日を喜び祝うのです。

 

ヨセフの思い

さて、ここまで私たちは聖書全体から「インマヌエル」ということばの意味について考えてきましたが、この御使いのことばがここで一人の青年ヨセフに告げられたということに最後目を留めていきたいと思います。降誕物語の中で、ヨセフはどちらかというと地味な存在です。ルカの福音書の方にはマリアへの受胎告知の場面が記されていますが、降誕物語で扱われるのはどちらかといえばそちらのマリアの方です。そして福音書全体を見ても、ヨセフ自身のことばというのは一度も出てきません。寡黙で地味な存在、それが福音書の描くヨセフの姿です。

しかし彼が置かれた境遇を考えてみると、その地味な描写の奥にある彼の深い葛藤が見えてきます。18節「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」。婚約期間中、自分の婚約者の妊娠が発覚した。もちろん自分に身の覚えはない。ここには書いていませんが、マリアにはすでに御使いからお告げがありましたから、もしかしたらそのお告げのことをマリアから聞いていたかもしれません。しかしたとえ聞いていたとしても、疑いは決してなくならないと思うのです。普通ならあり得ないことですから。自分の婚約者のことを信じてあげたい。けれどもどうしても苦し紛れの言い訳にしか聞こえない。本当は他の男と関係をもったのではないのか。自分は裏切られたんじゃないか。そうは思いたくないけど、どうしてもそう思ってしまう。一体自分はどうしたらいいのだ。20節には「彼がこのことを思い巡らしていたところ」とありますが、ある翻訳ではここを「悶々として思い巡らしていると」と訳しています。悶々と一人悩むしかない、一人の青年の生々しい苦悩がここに描かれています。

そして、そこに現れたのが御使いでした。20節「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」。もっと早く言ってあげてよと思います。マリアと同じように、妊娠が分かる前にお告げがあったらヨセフは思い悩む必要がなかったはずです。けれども、神さまはそうはされなかった。苦しみと葛藤の中にあったヨセフに語りかけることを選ばれたのです。なぜか。神さまはヨセフの信仰を求めておられました。「その子は聖霊によって生まれる」、マリアにとっては自分の体のことですから、それがはっきりと分かったでしょうが、ヨセフからしたらそのことばを信じるしかありません。実際のところは分からないわけですから。彼には信仰が求められました。

 

「インマヌエル」を受け入れる信仰

では彼はそれにどう応答したか。24-25節「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた」。すべて御使いが命じた通りに行った、ここにヨセフの信仰があります。御使いのことばを信じて、マリアのことを信頼し、妻として迎え入れ、自分とは血のつながっていない赤ん坊を自分の子どもとして迎え入れ、イエスと名前をつけた。彼の信仰の応答でした。

クリスマスを迎えるにあたって、私たちはこのヨセフの信仰の姿に学んでいきたいと思います。クリスマスの出来事、「インマヌエル」の出来事というのは決して単なる客観的な歴史の出来事ではありません。クリスマスの出来事は私たちの信仰を求めています。「神が私たちとともにおられる」、そうは思えない状況が今自分の周りにはあるかもしれない。「クリスマスおめでとう」と喜んで言えるような状況に今はないかもしれない。しかしそれでも、神の子イエス・キリストがこの世界に生まれてきてくださったという聖書のことばを信じて、「神が私たちとともにおられる」というインマヌエルの約束を信じて、信仰をもってイエス・キリストを自分の救い主として迎え入れていく。この信仰を私たちは今日、新たにしていきましょう。インマヌエル、神が私たちとともにおられる。これこそが、クリスマスを迎える私たちの信仰告白です。

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