マルコ15:1-15「理不尽な救い」(使徒信条No.5)

 

今日は7月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ人への手紙109-10節)。この聖句から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条に関連する聖書箇所から順番にみことばに聴いています。

今日はその5回目です。前回は「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」の部分を扱いましたので、今回はその次、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」の部分を扱います。そこで開いているのがマルコの福音書151-15節ですが、実はこの箇所、普段のマルコの連続講解説教のちょうど続きでもあります。特に計画してはいたわけではありません。一石二鳥というのは少し違うかもしれませんが、これも神さまの不思議な御業と思い、ともにみことばに聴いていきたいと思います。

 

かわいそうなピラト?

「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」。考えてみると、このピラトは大変不思議な存在です。使徒信条ではイエスさまを除いて、個人名は二つしか出てきません。「おとめマリア」と「ポンテオ・ピラト」です。マリアは分かります。イエスさまを産んだ重要人物です。しかしピラトはどうか。彼は他の箇所では「総督」と呼ばれることもありますが、言ってしまえばローマ帝国の一官僚です。福音書の最後の方に出てくるだけ。それなのに、使徒信条の中で大々的に取り上げられています。しかも、いい取り上げられた方ならまだしも、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しめられ」、最悪な取り上げられ方です。神の子キリストを苦しめた罪人の代表として2000年間名前を呼ばれ続けている。けれども実際に今日の箇所を読んでみると、ピラト自身はイエスさまに少し同情的だったことが分かります。もちろん立派な人物だったとは言えませんが、少なくとも、祭司長たちや長老たちや律法学者たちほどには悪意にまみれていません。まだ物事を冷静に捉えることができている。それなのに使徒信条は、「祭司長たち、長老たち、律法学者たちのもとで苦しめられ」ではなく、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しめられ」、わざわざピラトの名前をあげる。かわいそうなピラト、私などはそのように感じてしまいます。

 

世界の歴史の中で

ただ、古代の教会がピラトの名前を使徒信条に含めたのにはやはり理由があるわけです。一つは、イエスさまの生涯を、十字架の出来事を世界の歴史の中に置くためです。私たちにとってピラトは聖書物語の登場人物の一人ですから、名前を出されてもあまりリアリティはないかもしれませんが、古代教会の人々にとっては違ったはずです。「あぁ、ピラトが総督だったあの時か」と、感覚的にピンときたと思うのです。例えば、私たちの日本の文脈で言えば、「ダグラス・マッカーサーのもとで苦しみを受け」、というのに近いような感覚だと思います(例えですので他意はありません)。マッカーサーは外国アメリカの支配者です。同じようにピラトも外国ローマ帝国の支配者でした。そのピラトによって苦しみを受けたということにあえて言及することによって、福音書は決して空想上の物語を語っているのではなく、イエスさまは確かにこの現実世界の歴史のただ中に来て、苦しみを受けてくださったのだということをリアルに思い起こすことができるわけです。

 

ピラトの思い

ただ、それだけではありません。もちろんイエスさまは祭司長たち、長老たち、律法学者たちによって苦しめられましたが、最終的にイエスさまを十字架につける決断を下したのはやはりピラトでした。14章の後半ではユダヤ人による裁判の様子が描かれていましたが、実は当時のユダヤ人の議会は死刑を執行する権限をもっていませんでした。権限をもっていたのはローマ帝国から派遣された総督だけです。だからこそ祭司長たち、長老たち、律法学者たちは、ユダヤの最高法院での協議を終えた後、イエスをピラトに引き渡し、ピラトに訴え出たわけです。ただ、「こいつは私たちの神を冒涜している」と言っても、ピラトはユダヤ教徒ではありませんから、神を冒涜しようが何だろうが関心はありません。だからユダヤ人たちは、「このイエスという男は自らユダヤ人の王と名乗り、国家転覆を企てている」と、少し強調点を変えてピラトに訴えたわけです。

しかし、ピラトはそう簡単には応じません。彼はあくまでもローマ帝国の人間ですから、ユダヤ人の指導者たちの言いなりにはなりたくありません。しかも、どう見ても目の前にいるイエスという男が国家転覆を企てている危険人物のようには思えません。10節に「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである」とあるように、ピラトは事の本質を見抜いていました。このイエスという男はローマ帝国的には何の罪にも当たらないということをよく理解していた。

けれども、群衆の反応が彼の態度を一変させました。なぜか。ピラトはローマ帝国から派遣された官僚で、言ってしまえば中間管理職でした。一応ユダヤのトップにはいるけれども、もし群衆の反感を買い、暴動でも起こされようものなら、上から統治能力がないと見做され、すぐに首を切られてしまう。彼はそれを一番恐れていました。その結果が15節です。「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」。「群衆を満足させようと思い」。それが正義に反しているということを理解しつつも、最終的には群衆を満足させるために、群衆の要求を飲み、イエスを十字架につけることを決定したのです。

ここに私たちは、十字架という出来事の理不尽さを改めて思います。イエス・キリストは神の前に罪はなかったけれども、当時のローマ帝国の法律では罪に当たることをしたということであれば、十字架刑はまだ理解できるでしょう。法に則っているわけですから。しかし実際、イエス・キリストは神の前に罪がなかっただけでなく、当時の法律に照らしても罪に当たることは何もしていなかった。正真正銘潔白だった。それなのに、群衆を満足させるための道具としてピラトという一地方総督に利用された。保身のために利用された。こんな理不尽なことがあっていいのか。怒りをおぼえます。

 

バラバの姿

しかし、私たちが同時に心に刻まなければならないのは、この理不尽さがあったからこそ、私たちは罪の赦しを受けたのだということです。それを体現しているのが今日の箇所の後半に出てくるバラバです。このバラバという人物は、当時民衆の間で広がっていたローマ帝国に対する革命運動の指導者の一人だったと考えられています。おそらく彼もローマに対する反逆罪のような罪で捕らえられていたのでしょう。当時、反逆罪は十字架刑と決まっていましたから、本来であれば彼が十字架につけられるはずでした。つけられるべきだった。しかしピラトが群衆に媚を売った結果、無実のイエスが十字架につけられることになり、代わりにバラバが釈放されることになりました。

本来十字架につけられるべき罪人が赦され、解放され、代わりに罪なきお方が十字架につけられ、命を落とされた。私たちが受けている救いというのは、それほど「理不尽」なことなのです。理不尽を辞書で調べると、「物事の筋道が通らないこと」とありました。イエスさまの十字架はまさにそうでした。全く筋が通っていない、理不尽の極みです。なぜ神さまはこんな理不尽を許されたのか。なぜイエスさまはそれを黙って耐え忍ばれたのか。私たちを愛しているからです。物事の筋道を曲げてでも私たちを罪の刑罰から救い出したいと願われた。ピラトの行為は恐ろしく理不尽でした。しかしそれとは真逆の、そしてそれを遥かに超える「理不尽さ」をもって、神さまは私たちへの愛を現してくださった。罪なきお方が私たちの罪を全て背負い十字架で死なれた、この「理不尽」な救いを成し遂げてくださったのです。

イエスさまの代わりに釈放されたバラバは果たして何を思ったでしょうか。バラバの身になって想像してみてください。自分は本来十字架の上で死ぬはずだった。しかしナザレのイエスという男が、自分の代わりに十字架につけられたらしい。なんでも彼は本当は無実だったにもかかわらず、裁判で何も反論しなかったらしい。どれだけ人々から嘲られ、罵られても、ひたすら黙って耐え忍び、十字架に向かっていったらしい。彼がいたから自分は今こうして自由の身になった。一体なぜこんなことが起きたのだろうか。

実際バラバがその後どうなったのか、記録は何も残っていません。けれどももし自分がバラバだったら、イエス・キリストというお方を生涯忘れることはできないはず。そうではないでしょうか。罪なきお方が罪人の私のために十字架で死なれた。この事実を見過ごすことは決してできないはず。

この後、聖餐式が行われます。イエスさまの裂かれたからだを表すパンと、流された血潮を表す杯。理不尽な苦しみをイエスさまが受けてくださったこと。それほどまでに「理不尽」な神の愛を、救いを私たちは受けていること。2000年前、この世界の歴史のただ中に来てくださったイエス・キリストを改めて思い起こし、神の愛を確信していきましょう。

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