マルコ15:16-32 (I) 「王の姿」

 

いよいよ十字架の場面、マルコの福音書のクライマックスがやってきました。先週の週報の予告では1516-20節のみとしていましたが、準備をする中で、32節までを含めて一度に味わいたいと思いまして、今日は少し長い箇所を読んでいただきました。ただとても一度で語り切れる箇所はありませんので、今日と来週の2回に分けて、それぞれ違う角度からみことばに聴いていきたいと思います。

 

嘲られる王

今日の箇所では、ある一つの主題が一貫して描かれています。それは何か。王としてのイエスさまです。先週読んだ箇所でも、「あなたはユダヤ人の王なのか」とイエスさまに問うピラトの姿がありましたが、今日の箇所ではその主題がいよいよ鮮明になります。まずは17節、「紫の衣を着せ」。「紫」は古代から王家を象徴する色として用いられてきました。簡単に言えば、紫の衣というのは王、あるいは皇帝が着る服だったわけです。また続けて「茨の冠を編んでかぶらせ、それから、『ユダヤ人の王様、万歳』と叫んで敬礼し始めた」。19節では「ひざまずいて拝んだ」。26節を見ると、おそらく十字架の上につけられたであろうイエスさまの罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあったとあります。そして最後、32節では、祭司長たちと律法学者たちまでもがイエスさまのことを「イスラエルの王」と呼んでいます。一貫して王としてのイエスさまという主題が続いています。

しかし読めば明らかなように、そこにあるのは王に対する尊敬ではなく、その真逆、嘲りです。悪ふざけとも言えるでしょう。ローマ兵の立場からすれば、普段なかなか言うことを聞かずに抵抗ばかりしてくるユダヤ人に対して日頃からイライラしていたのかもしれません。そこに、「ユダヤ人の王」として訴えられ、十字架刑が決まった男がやって来た。日頃の鬱憤を晴らす絶好の機会です。わざわざ紫の衣を持ってきて、茨の冠を編むほどの手間をかけて、ナザレのイエスという男で遊び始める。やりたい放題です。31, 32節の祭司長たち、律法学者たちもそれに便乗して、皮肉たっぷりのことばを浴びせかけます。目を覆いたくなるような悲惨な光景です。

 

仕える王

その中で、イエスさまはどのように振る舞われたか。沈黙です。今日の箇所にイエスさまご自身のことばは一言も記されていません。どれほど嘲られても、侮辱されても、痛めつけられても、命乞いをするどころか、何もことばを発しようとしないイエスさま。もう刑を受けることは決まったのですから、少しくらい言い返しても神さまは許してくれるのではないか。そう思ってしまいますけれども、イエスさまはひたすら沈黙を貫く。

一体なぜか。そこで思い起こしたいのは、イエスさまがこれまで語ってこられた神の国の王の姿です。ともに開きましょう。マルコの福音書1042-45節「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」。これが、イエスさまが宣べ伝えておられた神の国の王の姿です。この世の支配者、王たちは人々に対して横柄にふるまい、上から権力をふるっている。しかし神の国の王は違う!神の国の王は誰よりも皆に仕える者。皆のしもべとして、上からではなく下から、人々に仕えていく者。それこそが神の国の王の姿なのだ。

その究極のかたちが、十字架です。するとどうでしょうか。今日の箇所に戻りましょう。先ほどのイエスさまのことばを踏まえて今日の箇所を読むと、全く違ったイエスさまのお姿が見えてくるはずです。神の国の王としてのイエスさまのお姿です。祭司長たち、律法学者たちは言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」。彼らの頭の中にあったのは、大きな権力を使って自分自身を救う、この世の王の姿でした。「お前が本当にキリスト、イスラエルの王なら、今すぐ自分を救ってみろ!他人の病を癒したり、悪霊を追い出したりできるなら、当然のように自分を救えるはずだろう。それができないお前は断じてイスラエルの王などではない!」彼らはこの世の王しか知りませんでした。

しかし、神の国の王は違うのです。イエスさまはその気になればいつでも御使いの軍勢を呼んで十字架から降りることができたでしょう。ローマ兵たちを蹴散らすこともできたでしょう。しかしそれでは罪に囚われている私たちを救い出すという神さまのご計画が台無しになってしまう。自分は救えても、他人を救うことができなくなってしまう。だからこそイエスさまは黙って耐え忍んだのです。徹底して人に仕えることを選ばれた。ただの人にではありません。罪で真っ黒に汚れた、神の敵であった私たちに仕えることを選ばれた。私たちを極みまで愛し、こんな私たちのために自らのいのちを投げ出してくださった。これが神の国の王の姿です。

ローマ兵たち、祭司長たち律法学者たちは皮肉のつもりでイエスさまを「ユダヤ人の王」と呼びました。しかしその皮肉はなんと真実だったのです。彼らが蔑んだ十字架。しかしその十字架こそが、ナザレのイエスが神の国の王であることの究極の証となりました。他人を救い、自分を救わない、それこそが神の国の王の姿であった。紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼する。これが神の国の王の戴冠式となりました。人間の皮肉をはるかに上回る、神さまの偉大な皮肉です。

 

神の国の王を礼拝する

これこそが、私たちが主とあがめ、礼拝している神の国の王キリストのお姿である。この驚きを改めて心に刻みましょう。もちろん今日の箇所は読んでいて辛いです。目を覆ってしまうほどの悲惨な場面が描かれています。「なんてかわいそうなイエスさま」。このイエスさまの姿を見て、私たちは悔い改めなければいけません。神の子キリストがここまでの仕打ちを受けなければならないほど私たちの罪は重かったのか。自分の罪深さを素直に認め、神さまの前に悔い改めなければなりません。

しかし、そこで終わってはいけません。「かわいそうなイエスさま。ごめんなさい」だけで終わってはいけない。私たちはここに神の国の王の姿を見るのです。徹底的に私たちを愛し、徹底的に私たちに仕えてくださったこのお方を、私たちは神の国の王としてあがめ、ひざまずいて礼拝していくのだ!十字架につけられたイエス・キリストこそが私たちの王であることを改めて心に刻んでいきたい。

そして、そのキリストが王として治めておられる神の国に今、私たちも生かされていることをおぼえたいのです。神の国の民として生きるということ、それは神の国の王であるイエスさまに倣って、イエスさまのように生きるということです。もちろん私たちはイエスさまと違って、十字架の上で人を贖うことはできません。それは神の国の王であるイエスさまだけがなせる業です。しかしイエスさまのように人々に仕えることはできます。神の敵であった私たちを愛し、私たちのしもべとなり、私たちに仕えてくださったように、私たちも、敵であろうが味方であろうが、人々を愛し、人々のしもべとなり、人々に仕えていく、そのような歩みへと招かれています。それが神の国の民とされた私たちの新しい生き方です。

最後にもう一度イエスさまのことばを読みます。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」。十字架にかかられた神の国の王の姿をいつも見上げながら、神の国の民として歩んでいきましょう。

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