マルコ15:33-39「この方こそ神の子」

 

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。マルコの福音書に記されたイエスさまの最後のことばです。衝撃的な最後です。他の福音書を見ると、もっと穏やかなイエスさまのことばが記されています。ルカの福音書では「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」。ヨハネの福音書では「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」、「わたしは渇く」、そして「完了した」。これぞイエスさまの最後のことばにふさわしいと思えるようなことばが記されています。それに比べてマルコの福音書はどうか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。「イエスさまのこんな悲痛な叫びなんて聞きたくない!」「こんなイエスさまのお姿なんて見たくない!」そのように感じる方もおられるのではないでしょうか。一体なぜイエスさまはこんな悲痛な叫び声をあげたのか。なぜマルコの福音書は十字架上のイエスさまのことばとして、この衝撃的なことばだけを記したのか。なぜルカやヨハネのようにもっと穏やかなイエスさまのお姿を残さなかったのか。

 

神なき世界に来られた神の子

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは旧約聖書の詩篇221節のことばです。ともに開きましょう。詩篇221節(旧952)「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。この箇所を元のヘブル語で読むと「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ」となります。マルコの福音書のイエスさまのことばと少し違うことに気づかれたでしょうか。実はイエスさまが口にされたのは、先ほどお読みしたヘブル語の原文を、当時民衆の間で一般的に話されていたアラム語という言語にしたものでした。イエスさまは単に十字架の上でこの詩篇22篇のことばを「引用」したのではなく、いつも話しているアラム語を用いて、ご自身の奥底にあるたましいの声を、この詩篇のことばにのせて叫ばれたのでした。

この詩篇22篇、よく読んでいくと、十字架の出来事に重なる描写がたくさん出てきます。6-8節「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。』」また18節「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」。

詩篇というのは人の祈りです。その中でもこの詩篇22篇には、神との断絶の中にある人間の嘆きと叫びが記されています。もちろん人との断絶もあります。誰も自分を助けてくれる人がいない。「私は虫けらです」、誰も自分を人間扱いしてくれない。みんなから蔑まれ、嘲られ、痛めつけられる日々。それでも神さまなら自分のこの叫びを聞いてくださるに違いない。神さまなら自分を助け出してくれるに違いない。そう思い、昼も夜も神さまを呼び求めるも、神さまは答えてくださらない。自分は人だけでなく、神からも見放されてしまったのか。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。

ここに描かれているのは、神なき世界の悲惨です。神さまは愛をもって人を造り、神とともに生きる存在として、人をエデンの園に置いてくださいました。しかし人はその恩を忘れ、蛇の誘惑に屈し、神を裏切り、罪の支配の下に走っていった。結果、そこには何が待っていたか。神なき世界の暗闇です。神と生きることこそが人の本来の幸せなのに、その神から遠く離れてしまった。神との関係を自ら断ち切ってしまった。それに伴い、この世界には様々な歪みが生じ、苦しみが満ち、人と人との関係も断絶されていった。誰も自分を助けてくれない。見渡す限りひとりぼっち。それが詩篇22篇に描かれている神なき世界の現実です。

しかし、神さまはそんな人間を見放されませんでした。神なき世界から、罪の支配から人を救い出し、もう一度人が神とともに生きることができるように、神の独り子、イエス・キリストをこの世界に送ってくださいました。神なき世界の、最も深い闇の中に、神の独り子が来てくださった。そして、神なき世界の悲惨の頂点である十字架の苦しみを味わってくださったのです。

聖書は十字架の出来事を記す際、肉体的な痛みにはほとんど触れません。もちろん肉体的な痛みは凄まじいものだったはずです。けれども聖書はそれ以上の痛み、苦しみを強調している。孤独です。長老たち、律法学者たち、ローマ兵たち、群衆から嘲られるだけならまだしも、あれだけ一緒に時間を過ごした弟子たちからも裏切られる。そしてなんと、あの父なる神さまさえもここにはおられない。誰も自分を助けてくれない。誰も自分と一緒にいてくれない。孤独の中の孤独。その中でイエス・キリストは叫んだのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。詩篇22篇に描かれる神なき世界の悲惨がここに極まりました。

 

キリストを通して神と出会う

神なき世界に生きる人間の苦しみを、その身をもって味わってくださった神の独り子イエス・キリスト。私たちの苦しみを理解してくださる。これは大きな慰めです。けれども、イエスさまはただ私たちを理解するためだけにこの世界に来てくださったのではありません。私たちと同じ土俵に立ち、同じ苦しみを味わいつつ、神なき世界の悲惨から私たちを救い出すために来てくださった。それが私たちの主イエス・キリストです。マルコ1538節「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。神殿というのは、神なき世界にあって、神と人が出会うことのできる唯一の場所でした。しかしこれまでマルコの福音書で見てきたように、その神殿は今や「強盗の巣」に成り下がっていました。神と出会うどころか、悪の巣窟、罪の支配の象徴になってしまっていた。神と出会う唯一の場所までもが失われてしまっていたのです。

しかし、その神殿の幕が真っ二つに裂けた!しかも普通の裂け方ではありません。上から下に向かって裂けた!これは神さまの裁きです。神殿を巣窟としていた悪の力、サタンがこのとき神さまの裁きを受けたのです。なぜか。イエス・キリストがサタンに勝利されたからです。十字架は神の国の王の戴冠式だというお話を前々回しました。イエスさまは神の国の王としてどのようにサタンに勝利されたのか。この世の権力者のような武力によってではありません。徹底的にへりくだり、徹底的に人々に仕えるという愛の力をもってサタンに打ち勝ったのです。その結果、神さまに至る道を塞いでいた悪の力が打ち破られ、神と人が再び出会う道が開かれたのです。サタンに支配されていた神殿が裁きを受けた今、今度はイエス・キリストという新しい神殿を通して、私たちは神さまに出会うことができる。神なき世界の悲惨から解放され、もう「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばなくてもよい、目を上げればすぐそこに神さまがおられる、神と人がともに生きる素晴らしい世界が回復されていくのです。

 

百人隊長の告白

最後に39節「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった。』」マルコの福音書は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」ということばから始まりました。しかしここに至るまで、イエスさまが神の子であることを理解した人は一人もいませんでした。けれどもここに来て、ユダヤ人でも、弟子でもない、異邦人の百人隊長が、イエスこそが真の神の子であることをついに悟った。どのようにしてか。十字架につけられた神の国の王イエス・キリストのお姿を仰ぎ見ることによってです。

私たちも、この百人隊長に続く者になっていきたいと願います。イエス・キリストの十字架は2,000年前の出来事です。けれども私たちはこの聖書のみことばを通して、キリストの十字架を今まさに目の当たりにしています。神なき世界の悲惨のただ中に来て、孤独の極みを味わってくださったお方。十字架の愛の力によって悪に勝利し、神さまとともに生きる道を切り開いてくださったお方。この方こそが唯一真の神の子である!私たちの信仰を告白していきましょう。

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