マルコ8:34-35「わたしに従って来たければ」

 

聖書には様々なことばが記されています。私たちを励ますことば、勇気を与えることば、慰めることば、平安を与えることば、様々あります。ただそれだけではなく、聖書の中には私たちを戒めることば、私たちを鋭く刺し貫くようなことばもあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く」と新約聖書のヘブル書にはありますが、まさにその通りです。そして今日の箇所にはまさにそのようなことばが記されています。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。思わず「どきり」としてしまうイエスさまのことばです。

 

二つの生き方

ここでイエスさまは、ご自身に従う道とはどういうものであるかを明らかにしておられます。イエスさまに従うとは、一つ目、自分を捨てること、そして二つ目、自分の十字架を負うということ。この二つなくしてイエスさまに従っていくことはできないということです。

では自分を捨て、自分の十字架を負うとは具体的に何を意味しているのか。それが次の35節で明らかにされています。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」。ここでは究極的なことが言われています。「自分のいのちを救う」のではなく、「キリストと福音のためにいのちを失う」、それこそが自分を捨てて十字架を負うということの意味だと言うのです。「いのちを失う」ということは、現代日本に住む私たちにとっては、そこまでリアリティのないことばかもしれません。しかし私たちはこの背後に示されている二つの生き方に目を留める必要があります。一つ目は、自分のために生きる生き方です。自分の道は自分で決める、自分を信じ、自分の願うように生きる。現代社会はこのような生き方を称賛します。それに対する二つ目の生き方は、キリストと福音のために生きる生き方です。自分の道ではなく、キリストの道に従っていく。キリストを信じ、キリストが願われるように生きる。

キリスト者として生きる時、私たちはこの二つの生き方のどちらかを選ばなければならない状況に必ず遭遇します。必ずです。そのとき私たちはどちらの生き方を選ぶのか。この二つの生き方は決して相容れることはありません。自分のために生きながらキリストのために生きる、そのような生き方はあり得ません。自分自身か、あるいはキリストか、私たちは必ずどちらかを選び、どちらかを捨てなければなりません。

 

ペテロの決断

このマルコの福音書には、その決断を迫られた一人の人物の話が記されています。イエスさまの一番弟子、ペテロです。ともに開きたいと思います。マルコの福音書1466節からです(新101頁)。72節までお読みします。

 

66ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。

67ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」

68ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。

69召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」

70すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」

71するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。

72するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。

 

「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」。ここで「知らない」と訳されていることばですが、これは実は、今日の聖書箇所であるマルコ834節の「自分を捨て」の「捨て」ということばと同じことばが使われています。「否定する」という意味をもっていることばです。先ほど、私たちには二つの生き方があると申し上げました。キリストのために生きる生き方と、自分のために生きる生き方。ペテロはここでそのどちらを選ぶかの決断を迫られました。自分はキリストの弟子であると公に告白し、キリストとともに十字架につけられるか。それとも自分のいのちを守るためにキリストを知らないと言うか。ペテロは後者を選びました。自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従う道ではなく、キリストを知らないと言い、キリストを捨て、自分の十字架を降ろし、自分のために生きる道を選んだのです。

 

キリストに従う覚悟

自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従っていく。これを口で言うのは簡単です。ペテロもそうでした。イエスさまは事前に、「今夜あなたは三度わたしを知らないと言います」と予告しておられましたが、ペテロはそれに対して、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と自信たっぷりに答えました。イエスさまのために自分を捨てる覚悟を口にしました。けれども実際にその状況に遭遇する中で、その覚悟は口先だけのものであったことが明らかにされたのでした。

私たちには、その覚悟があるでしょうか。これは今このように語っている私自身、非常に重く問われていることです。「自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従っていきましょう」と説教壇で語りながら、いざ自分がペテロと同じ場面に置かれたら、自分もペテロと同じ過ちを犯してしまうのではないか。キリストと福音のためにいのちを失う、この覚悟が本当に自分にはあるのだろうか。考えれば考えるほど、イエスさまのことばが重くのしかかってくる。自分は耐えられるだろうか。自分の弱さにばかり目がいってしまう。

 

キリストの十字架を仰ぎ見る

自分の弱さをしっかりと見つめること。これはとても大事なことです。私たちはまず自分の弱さをとことん見つめ、受け止めていく必要があります。けれども、そこで終わるのではありません。私たちはそこから、私たちの前にそびえ立つキリストの十字架を仰ぎ見ていきたいのです。ペテロは大きな挫折を経験しました。「彼は泣き崩れた」とあります。自分の弱さ、罪深さをこれまでかと思えるほどに見せつけられた。けれども彼はそのまま自分の弱さを嘆きながら生涯を終えていったのでしょうか。そうではありません。十字架のキリストに出会い、彼は変えられました。自分を捨て、自分の十字架を負い、キリストに従う。自分にはできなかった。しかしイエスさまはそんな自分を見捨てたか。そうではない。イエスさまはそんな私の罪を赦すためにご自分を捨て、十字架を負ってくださった。こんな私に罪の赦しといのちの救いを与えてくださった。ペテロは十字架のキリストに出会い、罪の赦しと救いを経験したのです。そしてその後彼はどう生きたか。キリストと福音のために自分を捨て、十字架を負い、死してもなおキリストに従う、そのような人生を全うしていったのです。

 

キリストのみあとを辿る

キリスト者として生きる、それはキリストのみあとを辿っていくということです。イエスさまが全部やってくださったからあとの人生は楽勝、ということではありません。この地上で苦難の道を歩まれたイエスさま。そのイエスさまに従い生きる、そのイエスさまのみあとを辿るということにはやはり苦難が伴います。自分を捨てること、自分の十字架を負うこと、これは苦難です。しかし私たちは、その苦難が苦難で終わらないことを知っています。苦難の先にある栄光を知っています。なぜなら、キリストがそうだったからです。十字架で死なれた後、三日目によみがえり、天の栄光の御座につかれた。キリストとともに苦難に与るキリスト者は、キリストとともにその栄光にも与るのです。35節で言われている、「わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」とはそういうことです。十字架から復活へ、苦難から栄光へ、キリストのみあとを辿っていく。それがキリストに従う道です。

今日の説教題は、34節のイエスさまのことば、「だれでもわたしに従って来たければ」にしました。「だれでもわたしに従って来たければ」。これは命令ではありません。イエスさまがここで求めておられるのは、私たちの自由な決断です。イエスさまは自分だけ高いところにいて、「わたしのためにいのちを捨てろ」と脅迫しておられるのではありません。まずイエスさまご自身が私たちのために自分を捨て、十字架を負ってくださった。その事実を知ったあなたはどうするか。自分のために生きる生き方、キリストのために生きる生き方、どちらを選び取るか。私たちに求められているのはその決断です。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。このイエスさまの招きに、私たちはどう答えるでしょうか。

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