ピリピ3:12-16「救いのレース」

 

早いもので8月も終わり、先週から9月に入りました。今日は9月の第一主日ということで、年間目標に関連する聖句からともにみことばに聴いていきたいと思います。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。今年はこの聖句から、「先立って進まれる主とともに」という目標をかかげて私たちは歩んでいます。その中で今日ともに考えていきたいのは、「先立って進まれる主とともに進む」ということです。私たち信仰者は洗礼を受けたらそこで終わりではなく、そこから主とともに進み続けるのだということを、このピリピのみことばを通して教えられていきましょう。

 

救いのレースを走る

この箇所でパウロは信仰者の歩みを競争、レースにたとえています。言ってみれば、「救いのレース」でしょうか。信仰者というのは、賞を目指して救いの道をひたすら走るアスリートのような存在なのだということです。パウロはこのたとえを気に入っていたようでして、1コリント9章や2テモテ4章でも同じようなたとえを用いています。今年の夏はオリンピック・パラリンピックが行われていますが、パウロはもしかしたらスポーツ観戦好きだったのかもしれません。

ただここでまず考えたいのは、なぜ私たちは「救いのレース」を走る必要があるのかということです。イエス・キリストを信じた者はすでに救われている、それが聖書の教えではないのか。確かにそうです。聖書はそれを明確に語っています。私たちはそれを疑ってはいけません。けれども、「すでに」救われた私たちはもう完全無欠で、罪を全く犯さない人になったのかと言われれば、そうではないと答えざるを得ません。私たちの内には「いまだ」罪の性質が残っています。聖書はそれを「古い人」と呼ぶことがあります。私たちは完全ではない。パウロもそのことをよく分かっていました。12節前半「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」、13節前半「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません」。私たちは「すでに」救われているけれども、「いまだ」救いの完成には至っていない。それが聖書の教えです。ですから信仰者は「救いのレース」を走り切る必要があるのだとパウロは今日の箇所で語っているのです。

 

「完全」を目指して

また15節ではこのように言われています。「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう」。「大人である人」、これは「成熟したクリスチャン」と言い換えることができます。ここでパウロが言っているのは逆説的なことです。本当の「成熟したクリスチャン」というのは、自分の不完全さ、未熟さを知っている人なのだということ。逆に言えば、自分の未熟さを知っている人こそが真の成熟したクリスチャンであるということです。だから成熟を目指して、完全を目指して、救いのレースを一緒に走っていこうじゃないか、パウロはそう呼びかけているのです。

では私たちは何を目指して走るのか。救いのレースのゴールは一体どこにあるのか。それを語っているのが14節です。「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」。「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる」、一見何のことを指しているのかよく分からない表現ですが、これは簡単にいえば「復活」のことを指しています。先ほど、私たちの内にはいまだ罪の性質、「古い人」が残っているとお話ししました。その最終的な解決はどのようにして与えられるのか。復活です。私たちの内にある「古い人」が完全に死滅し、からだの贖いを受け、新しい栄光のからだが与えられる。それが復活です。私たちはその復活を目指し、この地上において、自身の内にある「古い人」、罪の性質と闘い続けていく。それが救いのレースです。

 

キリストに捕らえられて

けれどもこの救いのレース、オリンピックなどで行われる普通のレースとは決定的に違う点が二つあります。一つ目は、私たちは必ずゴールすることができるということです。今回のオリンピックのマラソン競技は気温を考慮して札幌で行われましたが、いくら札幌と言えど夏はやはり暑いわけで、結果的に男子マラソンでは出場106人中30人が途中で棄権し、ゴールできなかったようです。今回ばかりはもう少し事前に対策ができなかったのかと思われますが、普通のレースでも、出場者全員が無事にゴールできる保証はありません。アクシデントがあって途中で脱落する人、もう無理だと諦めてしまう人、様々いるわけです。しかし、救いのレースは違います。私たちは救いのレースを必ず走り切ることができます。その根拠は何か。12節です。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」。なぜ私たちは救いのレースを必ず走り切ることができるのか。それは、私たちがすでにキリストに捕らえられているからです。

キリストに捕らえられているとは一体どういうことだろうかと考えたときに、私の頭の中で思い浮かんだのはパラリンピックのマラソンです。マラソンに限らず、パラリンピック陸上競技の視覚障がいクラスでは、選手の横にガイドランナー(伴走者)がついて、お互い紐を握り合いながら、一緒に走ることができるようです。そのガイドランナーがいることによって、視覚障がいの選手も安心して、物や人にぶつかったり、道に迷ったりせずに、レースを走り切ることができるようです。キリストに捕らえられながら救いのレースを走るというのも、それと似ているのではないかと思います。救いのレースは非常に厳しいレースです。途中で悪魔の誘惑に屈して、レースを諦めてしまったり、違う道に進んでしまったり、様々なことが起こります。とても自分の力だけで走り切れるものではありません。しかし、私たちは恐れる必要はありません。イエス・キリストが私たちの腕をガッチリとつかんで、捕らえて、一緒に走ってくださっているからです。しかも、実際のガイドランナーは選手の前を走ってはいけないようですが、救いのレースのルールは違います。イエスさまは私たちの前を走って、私たちを励まし、引っ張り、ゴールへと導いてくださるのです。そして私たちは聖霊さまによってイエスさまにガッチリと結び付けられていますから、イエスさまとはぐれはしないだろうかと心配する必要もありません。ただ、先立って進んでくださるイエスさまに信頼しつつ、自分の足を一生懸命に動かし、「古い人」と闘い続け、復活というゴールを目指していく。それが救いのレースです。

 

教会とともに

 そして最後に、救いのレースが普通のレースとは違う二つ目の点は、ゴールした人全員に等しく賞が与えられるということです。救いのレースでは、ゴールした順位は全く関係ありません。問われているのは、完走できるかどうか、ただそれだけです。救いのレースを完走した人には等しく、復活という神さまからの賞が与えられます。つまりどういうことか。私たち教会は一緒になって、ともにこの救いのレースを走っていくということです。いくらイエスさまがついているとは言え、天におられるイエスさまは今は目に見えない存在ですから、そんな中を一人で走るというのはなかなか大変なことです。けれども私たちには、ともにレースを走る仲間が与えられています。それが教会です。走るペースは人それぞれです。レースの途中で遭遇する障害物も人それぞれです。ときには諦めたくなることがあるかもしれません。道を逸れそうになることがあるかもしれません。けれどもそんなときこそ私たちは互いに助け合っていくのです。パウロがピリピの教会の人々に書き送ったように、「最後までレースを一緒に走り切ろう」と励まし合っていくのです。私たちは個人戦ではなく、団体戦を戦っている。それが教会です。キリストに捕らえられた者として、先立って進まれるキリストとともに、そして教会の仲間とともに、復活のゴールを目指しながら、目の前にある救いのレースを走り続けていきたいと願います。

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