マタイ6:11「神の国での満たし」

 

今日は月に1回の年間目標に基づく説教です。はじめに、年間聖句をともに読みましょう。週報の一面をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』(ルカの福音書11:1)この箇所から「祈りに生きる教会」という年間目標を立て、特に「主の祈り」の学びを通して、祈りについて集中して御言葉に聴く1年間を過ごしています。

今日は「主の祈り」の第四の願いです。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。第一から第三の願いは神さまご自身のことに関する祈りでした。第一「御名が聖なるものとされますように」、第二「御国が来ますように」、そして第三、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」、目線を天からこの地上に向けた後、第四の願いではいよいよ私たち自身に関する祈りに移っていきます。

 

すべての必要を満たす主

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。ここで「糧」と訳されているのは「パン」ということばです。イエスさまがおられた地方の主食です。日本風に言い直すと「日ごとの米を今日もお与えください」となるでしょうか。いずれにせよ、ここに来てイエスさまは私たちにとってごく身近な日常の必要に目を留めていかれます。

時折、聖書は霊の糧に関心があるのであって、肉の糧、物質的な必要はあまり重要でないということばを聞くことがありますが、それは聖書の価値観とは違います。聖書は旧新両約を貫いて、「パン」、肉の糧、物質的な必要に大きな関心を払っています。例えばヨセフとその家族はエジプトに来て飢饉から救われるという経験をしました。神さまは出エジプトを果たしたイスラエルの民をマナとうずらの肉をもって養いました。預言者エリヤは亡命中、烏と1人のやもめを通して食を得て命を繋ぎました。新約聖書も同じです。何よりもイエスさまご自身が、敵対する人々から「大食いの大酒飲み」と呼ばれるほど、食を楽しんでおられたお方でした。特にイエスさまは取税人や罪人たちとの食事をとても大切にされました。また五つのパンと二匹の魚をもって五千人を養うという奇跡も行われました。イエスさまは食事を、肉の糧をとても大切にしておられた。

なぜイエスさまは食事を大切にされたのでしょうか。単にグルメ家だったからではありません。そこには神の国の姿が大きく関係していました。ルカの福音書621節でイエスさまはこのように言われています。「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです」。イエスさまが宣べ伝えた神の国、そこでは飢えた人たちが満ち足りるようになるのだとイエスさまは宣言されました。神さまのご支配の中で誰かが飢えるなんてことが決してあってはいけない。神の国では、すべての人が満ち足りるようになる。イエスさまはそのような神の国の姿を現すために、取税人や罪人たちと食事をし、お腹を空かせていた五千人を養われました。

私たちが毎月もっている聖餐の時も同じです。聖餐は豊かな意味をもっていますが、その中の大切な意味の一つとして、神の国の食卓の前味を味わうということがあります。聖餐の中でイエスさまからパンとぶどう液をいただくことによって、完成した神の国での満ち足りた歩みの前味を味わっていく。だから私たちは毎回少量ではあっても実際にパンを食べ、ぶどう液を飲むのです。実際に食べ、飲むことに大きな意味があります。もちろん霊の糧、御言葉は大事です。霊の糧、御言葉によって私たちは本当の意味で生かされる。しかし霊の糧だけが大事で、肉の糧はどうでもよいということを聖書は決して教えません。私たちはからだをもった存在として造られました。ですから霊とからだがともに満たされてこそ私たちは本当の意味で満たされます。全存在が満たされるのです。神さまは霊の糧だけでなく、肉の糧も含めて、私たちの必要のすべてを満たしてくださるお方です。

だからこそ教会は使徒の時代から聖餐式に加え、ともに食事をする愛餐の時を大切にしてきました。単なる仲良しの食事会ではありません。中には貧しい人々、飢えていた人々も大勢いました。その中で教会は食卓を開放し、食事をともにすることを通して、満ち足りた神の国を、霊とからだをもって味わってきました。神の国の前味を味わってきました。礼拝式だけでなく、食事、愛餐会を通しても、教会は神の国の姿を現していく。霊とからだが満たされ、喜びに満ち溢れた人々の顔がそこにある。神の国の豊かさをおぼえていきたいと思います。

 

「その日暮らし」の信仰

さて、「主の祈り」の文言にもう一度目を留めていきましょう。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」とあります。「日ごとの糧」、日々必要な糧ということ。一年分ではなく、一週間分でもなく、「日ごとの糧を今日もお与えください」。ここで思い起こされるのは、旧約聖書における荒野でのイスラエルの民です。イスラエルの民は天からのマナによって養われていたわけですが、そのマナは日ごとに与えられました。ズルをして翌日の分まで余分にとっても、翌日には腐ってしまう。ですから毎日その日に必要な分だけをいただく。なぜ神さまはそう命じられたのか。それは、日々必要を満たしてくださる神さまに信頼することを教えるためです。人間は放っておいたら明日のこと、一週間後のこと、一年後のことをすぐに心配し、思い煩ってしまう。コロナ禍が始まったばかりの頃にトイレットペーパーの買い占め騒動がありましたが、それが人間の弱さです。すぐに先の心配ばかりをしてしまう。そんな私たちに対して、イエスさまはこう言われました。「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。…明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」。必要はすべて天のお父さまが必ず満たしてくださる。だから明日のことは心配しなくていい。その日その日に、「日ごとの糧を今日もお与えください」と神さまに祈り求めればそれでよいのだ、ということ。

「その日暮らし」ということばがあります。あまりいい意味では使われません。ギリギリの生活状態。あるいは将来に対する見通しもなくダラダラと日々を送ること。一般的にはよくない意味で使われますが、神さまの前では「その日暮らしの信仰」というものがあり得ると思うのです。ギリギリの中で目的なく毎日を過ごすのではなく、父なる神さまの御手の中にある祝福を確信しつつ、思い煩いから解放され、その日その日、与えられたいのちを自由に精一杯生きていくという意味での「その日暮らし」。それが神の国に生きる者のあり方ではないでしょうか。

 

今の時代にあって

しかしこの飽食の時代、「日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りがどれだけ意味をもつのだろうかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。イエスさまがいた当時の時代、あるいは日本であっても戦後などの貧しい時代であればこの祈りは大きな意味をもったかもしれないけれど、今の時代、私たちは本当にこの祈りを必要としているのだろうかと。確かに、かつての時代に比べたら、この祈りを切実に祈るということを私たちはしなくなっているかもしれません。けれども改めて思い出したいのは、昔も今も、私たちは変わらず神さまによって養われているということです。仕事をしてお金を稼いで食べていく、もちろんそうなのですが、その背後には神さまの恵みがあるということを改めて思い起こしたいのです。

なぜ私たちは食前の祈りをするのか。それは、目の前にある食事は自分の力によって得たものではなく、天の父なる神さまが与えてくださったものだと信じているからです。この生活のすべては神さまの御手に支えられていることを祈るたびに思い出していく。ですから、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」という祈りは今の時代の私たちにも必要な祈りです。この祈りを通して私たちは、自分は自分の力だけで生きているという傲慢さから守られ、私たちを支えている父なる神さまの御手を見るようになっていきます。

 

私たちの祈り

そして最後に目を留めたいのは、「私たちの」日ごとの糧という部分です。すでに何度も申し上げているように、「主の祈り」は個人の祈りではありません。「私たちの」祈りです。「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」、この祈りを通して、私たちは自分自身の必要を超えて、周りの人々の必要にも目を向けていきます。今日はちょうど、日本国際飢餓対策機構が発行している「ハンガーゼロ・ニュース」の8月号をお配りしています。表紙には、「1分間に17人、1日に25000人、1年間で約1000万人が飢えのために生命を失っています」とあります。この世界の現実です。この現実を重く受け止め、キリスト者として立ち上がり活動をしているのがこの団体です。この「主の祈り」をまさに実践している。素晴らしい働きです。

あるいは世界に目を向けるのが難しくとも、私たちのすぐ隣にも必要のある人がいるかもしれません。今の日本でも、「見えない貧困」が大きな社会問題になっています。6人に1人の子どもが「見えない貧困」にあえでいると言われる。あるいは貧困とまで言えなくても、様々な事情から食べるのに困っている人がいるかもしれない。生活に困っている人がいるかもしれない。私たちはそういった方々のことも思い浮かべながら、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っていきたいのです。そしてそれぞれが示されるところに応じて、祈りを実践する人になっていきたい。祈りを通して、実践を通して、すべての必要が満たされる神の国を宣べ伝え、その完成を待ち望んでいきたい。この願いとともに、私たちの応答の祈りとして最後に「主の祈り」を祈っていきましょう。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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