ヨハネ19:28-30「完了した」

イエスさまの復活をお祝いするイースターを来週に控え、今週私たち教会は「受難週」という一週間を過ごします。イエスさまがエルサレムに入られたこの日曜日、棕櫚の主日に始まり、最後の晩餐があった聖木曜日、そして十字架にかかられた金曜日、墓の中におられた土曜日と続きます。私たちキリスト教会はどんな時でもキリストの十字架の御業を告げ知らせるのですが、この受難週は特に、イエス・キリストが十字架で何をしてくださったのかを深く思い巡らす時間をもっていきたいと思います。

 

十字架の七つのことば

新約聖書には四つの福音書がありまして、いずれの福音書もイエスさまの十字架をそのクライマックスとして描いています。けれども、どの福音書も全く同じ描き方をしているわけではありません。もしそうだったら四つもある意味がなくなってしまいます。それぞれの強調点には違いがあります。それは特に、イエスさまが十字架の上で発したことばに表れています。マタイとマルコの場合、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか」というイエスさまの苦しみの叫びだけを記しています。十字架上での父なる神さまとイエスさまの関係の断絶が強調されています。ルカの場合は三つのことばが記されています。一つ目は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」ということば。二つ目は横にいる犯罪人に向かって言われた、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」ということば。そして三つ目は息を引き取る直前に言われた、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」ということば。父なる神への信頼が強調されています。マタイとマルコとは違う描き方をすることによって、十字架の上でのイエスさまのお姿がさらに豊かに浮かび上がってきます。

少し前置きが長くなりましたが、今日私たちが開いているヨハネの福音書はどうでしょうか。今日の箇所の前の26,27節には母マリアと愛する弟子に向けたことばが記されていますが、最後の最後のシーン、今日の箇所で記されているのはたった二つのことばです。「わたしは渇く」、そして「完了した」。どちらもギリシャ語では一つの単語です。非常に短い、しかし大変印象に残ることばがここに残されています。今日私たちは、「わたしは渇く」「完了した」、この二つのことばに込められた十字架のメッセージにともに聴いていきたいと思います。

 

渇きを満たす方?

まずは「わたしは渇く」ということば。これは何を意味しているのでしょうか。両手両足を釘で打たれ、息も絶え絶えになっているイエスさまは、焼け付くような喉の渇きを味わっておられたはずです。実際に29節を見ると、兵士たちはイエスさまの喉が渇いているのだと思い、自分たちの飲み物だった酸いぶどう酒、発酵させたぶどう酒をイエスさまに飲ませようとしました。しかし、喉が渇いたということだけで「わたしは渇く」と仰ったのであれば、ヨハネはそれをわざわざイエスさまの最後のことばとして記さなかったはずです。このことばにはもっと深い意味が込められているはず。

そこで思い出したいのは、ヨハネの福音書でこの「渇く」ということばがどのように使われているのかということです。お読みしますのでそのままお聴きください。例えば4章、サマリアの女との会話の中でイエスさまはこう言われました。413-14節「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」。また、635節「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」。そして737-38節「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」。いかがでしょうか。「渇き」ということばがヨハネの福音書には何度も出てきます。単なる喉の渇きではありません。たましいの渇きのことです。そしてイエスさまを信じる者は決して渇くことがない、たましいの渇きが満たされる、イエスさまはそう何度も語られました。

しかしだとすると、余計に疑問が湧いてきます。そのイエスさまが、なぜ十字架の上で「わたしは渇く」と言われたのか。他の人の渇きを満たすことはできるのに、自分の渇きを満たすことはできないのか。他人は救えるのに自分は救えないのか。兵士たちの嘲りが聞こえてくるようです。

 

たましいの渇き

そこで私たちが目を向けたいのは、28節にある「聖書が成就するために」ということばです。イエスさまは聖書が成就するために「わたしは渇く」と言われた。この時代にまだ新約聖書はありませんから、ここで言う「聖書」とは旧約聖書のことです。一体旧約聖書のどの箇所のことを言っているのか。実は旧約聖書を読んでいくと、この「渇き」というテーマが何度も語られていることに気づきます。その代表的な箇所を開きたいと思います。お開きになれる方はお開きください。詩篇69篇です(旧1002頁)。

この詩篇に記されているのは、敵からの嘲りによって痛みと苦しみの中にいる詩人の叫びです。まず目を向けたいのは19節からです。「あなたはよくご存じです。私への嘲りと、恥と恥辱とを。私に敵する者はみな、あなたの御前にいます。嘲りが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。私が同情を求めても、それはなく、慰める者たちを求めても、見つけられません。彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」。渇いた時には酢を飲ませた、これはまさに今日のヨハネの箇所で起こっていることです。イエスさまはこの詩人のように、味方の弟子たちからは見捨てられ、ローマ兵、民衆からの嘲りを受け、恥と恥辱の中にいました。

けれども、詩人の渇きの本当の原因はそこではありません。詩人はここで何を一番求めていたか。3節を見てください。「私は叫んで疲れ果て、喉は渇き、目も衰え果てました。私の神を待ちわびて」。そうです、詩人の渇きの理由は、神の不在にありました。神さまを求めているのに、神さまはそこにおられない。神さま、私に答えてくださいと叫んでいるのに、答えが返ってこない。神さまは一体どこにおられるのか。私を見捨ててしまったのか。詩人のたましいの渇きです。

たましいの渇き、これはこの詩人だけのものではないはずです。物理学者としても有名な17世紀のフランス人のパスカルという人はこのようなことばを残しています。「すべての人間の心には穴が開いている。その穴は神のかたちをしている」。その穴は神のかたちをしている。神さまによってでしかその心の穴は埋められないということです。人のたましいの渇きは、神さまによってでしか満たされない。なぜか。人は神のかたち、神の子どもとして、神さまとともに生きる存在として造られたからです。しかしそれを邪魔しているのが罪です。罪によって、神さまと人間の間には大きな隔たりが、大きな壁ができてしまった。その壁によって、神さまから来るいのちの水の流れが断たれてしまったのです。だから私たちのたましいは渇く。生きる気力が湧いてこない。生きている意味が分からない。何をしても満たされない。すべてが虚しい。「私は叫んで疲れ果て、喉は渇き、目も衰え果てました。私の神を待ちわびて」。私たちのたましいの叫びがここにあります。

 

渇きを満たすために

「わたしは渇く」。イエスさまのこのことばは、私たちのたましいの渇きを表しています。神の御子であるイエスさまご自身は、いのちの水に満ち満ちておられる方でした。本来であれば渇きとは対極におられるはずのお方です。しかし、イエスさまは神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、私たち人間と同じようになられました。私たちのたましいの渇きを、自らの渇きとしてくださった。この渇きを、恥と苦しみを私たちとともにしてくださった。

そしてそれだけではありません。イエス・キリストは十字架の上で私たちのすべての罪をも背負い、その罰を代わりに受けてくださったことによって、私たちと神さまとの間にそびえ立っていた高い壁を、隔たりを取り除いでくださいました。いのちの水が再び流れ出し、私たちの心を潤し、満たすようにしてくださった。それがイエス・キリストの十字架の御業です。

 

愛のご計画

一体なぜそこまでしてくださったのか。聖書にはその答えが書いてあります。そのままお聴きください。大変有名な箇所です。ヨハネの福音書316節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。すべては神さまの愛のゆえ。それが聖書の答えです。私たちが信じる神さまは、たましいの渇きをおぼえている私たちを遠く天から眺めてただ憐れむだけのお方ではありません。なんとかしてそのたましいの渇きを満たそうと、もう一度神さまと人とがともに生きることができるように、ご自身のひとり子を世に遣わし、十字架にかけてくださった。そしてその御子を信じる者は、永遠のいのちを、心の全き満たしを得ることができるようにしてくださった。

だからイエスさまは十字架の上で最後に「完了した」と言われたのです。人間の目から見たら、十字架は失敗です。弟子たちの誰もがそう思っていました。イエスさまの計画はそこで途絶えてしまったかに見えた。しかし神さまの目には違いました。神さまにとって、十字架はご自身の愛のご計画が完了するときだったのです。イエスさまはそのご計画を成し遂げるために、自ら十字架にかかり、そこで霊をお渡しになられた。私たちの渇きを満たすために、自らを犠牲にしたのです。ここに神さまの愛が現れました。

私たちのこのたましいの渇きを満たすために、自らのいのちをささげてくださったお方がいる。それほどまでに私たちは愛されている。この事実は、私たちの生き方を変えます。十字架は、私たちの生き方を変える力をもっている。自分のためだけに生きる生き方から、色々なもので自分の渇きを満たすためだけの生き方から、私たちを満たしてくださる神さまのために生きる生き方へ、そして他の人を愛し、他の人の渇きを満たす生き方へと変えられていくのです。この受難週のとき、この十字架に愛の力を今一度噛み締めていきましょう。神さまは今日も、私たちをイエス・キリストの十字架のもとへと招いておられます。

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