ルカ24:1-12「イエスのことばを思い出す」

 

おはようございます。そしてイースターおめでとうございます。イエスさまの十字架を特別に覚える受難週を過ごした後、このようにイエスさまの復活をお祝いするイースターの主日を共に迎えられたことを感謝します。

先週月曜日、この教会で昨年受洗された菊池かづ子姉が天に召されました。79歳でした。生前菊池かづ子姉は、葬儀は鴇田先生の下、家族葬で行いたいと希望されていましたので、急遽鴇田先生が駆けつけてきてくださり、8日水曜日に前夜式、9日木曜日に告別式を行いました。ご遺族のみなさんにとっては初めてのキリスト教の葬儀だったようですが、そこで鴇田先生は、イエスさまを信じた菊池かづ子姉には復活の希望がある、御国での再会の希望があるということを力強く語っておられました。もちろん人の死というのは大変悲しく寂しいものですけれども、私たちにはその悲しさ、寂しさの先に復活の希望が待っているのだということを改めて思わされた時でした。

さて、今日は私たちに与えられているそのような復活の希望の原点である、イエスさまの復活の記事から共に御言葉に聴いていきたいと思います。

 

女性たちの悲しみと絶望

ルカの福音書の24章は、イエスさまにずっと付き従っていた女性たちに起こった出来事を記すところから始まります。この直前の23章の終わりを見ますと、この女性たちはイエスさまの十字架を遠くから見守り、イエスさまが息を引き取った後、その遺体がアリマタヤのヨセフによって墓に納められるのを見届けていました。そして数えで三日目の日曜日の朝、彼女たちはイエスさまの遺体をケアするために、香料を持ってお墓に来たというのが復活のストーリーの始まりです。

この時の女性たちは悲しみと絶望のどん底にいました。私たちの愛するイエスさまがついに死んでしまった。あの方こそが私たちの救い主だと思いっていたのに。私たちはこの先何に期待して生きればいいんだろうか。そんなことを思いながら、女性たちはお墓にやって来ました。

 

復活を理解できない人間

すると、何と墓を塞いでいたはずの石がわきに転がされています。お墓の中を見にいくと、イエスさまの遺体が見当たりません。イエスさまが亡くなられたことだけでも悲しいのに、その上遺体まで盗まれてしまうなんて。女性たちは途方に暮れるしかありませんでした。

その時、二人の御使いが女性たちの目の前に現れました。そしてこう言いました。5-7節。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。

ここで私たちは、6節最後の「思い出しなさい」という言葉に注目したいと思います。ここで御使いたちが「思い出しなさい」と言っている内容は、7節に書いてある十字架と復活のことです。イエスさまはこのことを何度も予告してきました。たとえばルカの福音書1832-33節でイエスさまはご自身のことについてこう語っています。「人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」そしてこの箇所だけでなくて、922節や1332節でもイエスさまはご自分が十字架にかかり、三日目に復活されることについて明確に予告しています。

女性たちもこういったイエスさまのことばを何度も聞いていたはずです。しかし、いざイエスさまが十字架にかかって死なれた時には、それを思い出すことができなかった。一体なぜだろうかと思います。イエスさまが死なれてから丸1日以上あったのに、復活の予告をチラッとでも思い出せなかったんだろうか。今福音書を読んでいる私たちはそう思ってしまいますけれども、これは単純に彼女たちがそれを忘れていたというわけではなくて、そもそもイエスさまの復活の予告を全く理解していなかったということです。その証拠に、先ほどお読みしたルカ18章の十字架と復活の予告の直後の34節には、「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」と書いてあります。女性たちも同じだったでしょう。復活とはそれほど常識外れのあり得ないことだったのです。11節には「たわごと」とありますが、弟子たちや女性たちは誰も復活の予告を本気にとっていなかったのです。だからイエスさまが十字架の上で死なれた後、悲しみと絶望の中にあっても、イエスさまの復活の予告を思い出すことができなかったのです。

 

「思い出しなさい」

しかし、そんな女性たちに御使いは力強く語りかけました。「主がお話しになったことを思い出しなさい」。そしてそれを受けて8節、「彼女たちはイエスのことばを思い出した」。これは非常に短い1節ですが、おそらくこの時女性たちの頭の中ではすごいことが起きていたはずです。これまでイエスさまが語ってきた御言葉の数々が頭の中を駆け巡り、そのすべてがつながった瞬間でした。「アハ体験」というものをご存知でしょうか。今まで分からなかったものがふとした瞬間に分かるようになる体験のことですけれども、女性たちはここでまさに「アハ体験」をしたのです。「ああ、あの時イエスさまが言っていたことはこういうことだったのか」。そうやって彼女たちは復活を信じる信仰へと至ったのです。

 

御言葉を通して信じる

ただ、ある方はこんな疑問を口にするかもしれません。なぜイエスさまは直接女性たちの目の前に現れなかったのか。たしかに、御使いを通して「思い出しなさい」と語るのではなく、直接目の前に現れた方がことは単純に進んだはずです。しかし、イエスさまはそうされなかった。なぜでしょうか。それは、イエスさまの御言葉を通して信じるということの模範を私たちに残すためです。イエスさまは今は天におられますから、私たちはイエスさまを直接目で見ることはできません。しかし私たちはこの女性たちのように、イエスさまの御言葉を通して、復活のイエスさまを信じることができる。それこそが信仰です。ここではそのような信仰の模範が示されているのです。

2000年前の人々が復活を「たわごと」としか思えなかったように、いや、それ以上に、現代の私たちにとって復活は信じがたいことです。トマスのようにイエスさまの手の釘跡に指を入れることができれば話しは別でしょうが、現代の私たちにはそれも叶いません。しかし、私たちにはこの聖書が、イエスさまの御言葉が残されています。この御言葉は、イエスさまは復活し、死と悪魔に勝利されたとはっきりと語っています。この御言葉を信じるかどうか、それが私たちに問われていることです。「主がお話しになったことを思い出しなさい」、神さまは私たちに語りかけています。その神さまの招きに私たちは今日改めて応答していきたいと願います。

 

復活の喜びを伝える

最後に、その神さまの招きに応答した女性たちのその後に目を留めたいと思います。彼女たちは急いで墓から戻って、弟子たちに復活の知らせを伝えにいきました。彼女たちは悲しみと絶望を抱えて墓にやってきましたが、帰りの道のりは喜びと賛美に満ち溢れていたことでしょう。復活を信じるとはそういうことです。イエスさまは復活され、死と悪魔に勝利された。もう恐れるものは何もない。復活の信仰は私たちの悲しみと絶望を拭い去り、私たちに勇気と希望を与えます。その復活の信仰に今週も私たちは堅く立っていきましょう。そして主の復活を喜び祝いながら、女性たちが弟子たちに喜びの知らせを伝えにいったように、私たちも御言葉を携え、この喜びの知らせを人々に伝えていきましょう。悲しみと絶望が満ちている今のこの世の中、復活の喜びの知らせがこの世界に、日本に、北海道に、そしてこの室蘭の地に広がっていうことを願います。

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