使徒4:1-22「唯一の救い」(使徒信条 No.3)

 

今日は5月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばにともに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読み上げましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです」(ローマ人への手紙109-10節)。この聖句から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条を順番に学んでいます。

 

キリスト教信仰とは

前回、使徒信条は大きく分けて父なる神、子なる神、聖霊なる神という三つの部分からなっているとご紹介しました。前回はその中の父なる神についての告白を扱いましたので、今日から第二の部分、子なる神、イエス・キリストについての告白に入っていきます。パッと見て分かるように、使徒信条の中でこの子なる神についての告白は一番長くなっています。なぜか。一番重要だからです。もちろん三位一体の神さまはみな等しい神さまで、そこに優劣はありません。ただそもそも私たちはどのようにして三位一体の神さまを知ることができたのかというと、それはやはり子なる神、イエス・キリストを通してということになります。聖書にはこのようなことばがあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)。目に見えない神さまが、目に見える人として、イエス・キリストとしてこの地上に来て、ご自身を現してくださった。イエス・キリストを通して、神さまの救いが、神さまの愛が私たちに明らかにされた。私たちの信仰の原点、中心はイエス・キリストにあるのです。私たちの信仰が「キリスト教信仰」と呼ばれるのはそのためです。

イエス・キリストについての長い告白は全部で8回に分けて扱っていく予定です。今日はそのはじめの部分、「わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白を見ていきます。この告白は非常に中身が詰まっています。「ひとり子」「主」「イエス」「キリスト」、それぞれのことばが非常に豊かな意味をもっていますから、それを1回でどのように語ろうか、正直なところかなり悩みました。その中で出会ったのが、今日の使徒の働きの箇所です。「神のひとり子、私たちの主、イエス・キリストを信じる」とは一体どういうことなのか。今日の中心聖句は12節です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」。イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストが唯一の救い主であると信じること。イエス・キリスト以外に救いはないと信じること。そのような切り口からともに聖書のことばに聴いていきましょう。

 

唯一の救い主?

「キリスト以外に救いはない」。これは今の時代、好まれないことばでしょう。今はポストモダンの時代と言われます。多様性が何よりも重んじられる社会です。相手を否定せず、違いを受け入れあっていこう。それ自体は素晴らしいことです。ただ、そのような考え方は信仰の世界にまで及んでいます。キリスト教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ、宗教というのはすべて同じ山の頂上を目指している。ただ頂上に至るまでのルートが違うだけ。すべての宗教は真理。だからお互いに真理を押し付けあってはいけない。みんな違ってみんないいじゃないか。これは一般的に宗教多元主義と呼ばれる考え方ですが、このような考えをもっている現代人は多いと思います。そのような時代ですから、「キリスト以外に救いはない」などと言うと大変嫌われるわけです。「キリスト教は心が狭い」「排他的だ」「時代に逆行している」。皆さんもそのような批判を聞いたことがあるかもしれません。

ただ歴史を振り返ると、キリスト教会が独善的な態度で他の宗教を弾圧してきたということは確かにありました。「自分たちは未開の劣った民族にこの世界の真理を教えてあげるのだ」、宣教の名の下に多くの侵略がなされ、植民地が生み出されていきました。教会と政治がタッグを組み、世界中の多くの人々を苦しめてきた。そのような歴史を私たち教会は悔い改めなければなりません。決して同じ過ちを犯してはいけません。

しかしだからと言って、キリストこそが唯一の救い主であると言えなくなってしまっていいのでしょうか。そうではないはずです。やはり聖書は「この方以外には、だれによっても救いはありません」と明確に語っています。では私たちは今のこの時代にあって、どのようにキリストへの信仰を告白していくのか。キリストの救いを宣べ伝えていくことができるのか。

 

確信をもつ

そこで見ていきたいのが、今日の箇所に描かれているペテロたちの姿です。今日の箇所には裁判の様子が描かれています。事の発端は、この前の3章に書いてあることがですが、「美しの門」というところでペテロが生まれつき足の不自由な人をイエス・キリストの名によって癒したという出来事です。そしてそれを見ていた人たちに向かって、悔い改めてイエス・キリストを信じるようにと語っていたところ、当時の権力者たちに捕えられて、議会に連れていかれました。47節を見ると「おまえたちは何の権威によってあのようなことをしたのか」とあります。自分たちが犯罪者としてローマ軍に引き渡し、十字架の上で死んだあのイエスは実は救い主だった!そんな話を広められたら、自分たちの権威が失墜してしまう。何としても黙らせなければいけない。権力者たちはペテロたちに厳しく迫りました。

普通、このような場に引き出されたら、人は一生懸命弁明をします。自分たちは決して変な新興宗教ではない。あなたたちに迷惑をかけるようなことはしませんから。どうか見逃してください。しかし、ペテロは違いました。8-10節「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。『民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたイエス・キリストの名によることです。』」大胆な主張です。「あなたがたが十字架につけ」、ペテロは大胆に目の前にいる権力者たちの罪を指摘し、イエス・キリストこそが唯一の救い主であると力強く主張しました。

一体ペテロたちはなぜそこまで大胆に出ることができたのか。19-20節にはこうあります。「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。』」たとえいくら脅されようと、自分たちが見たこと、聞いたことを語らないわけにはいかない!自分たちは、十字架で殺されたにもかかわらず三日目によみがえったイエス・キリストに確かに出会った!そしてキリストを証しする証人になりなさいとイエスさまご自身から命じられた!この経験が決定的だったわけです。決してなかったことにはできない、イエス・キリストとの決定的な出会いが彼らにはありました。誰から何を言われようが、この出会いを否定することは誰にもできない!真の救いはイエス・キリストだけにある!

イエス・キリストとの出会いに基づく確信。ぜひこれを私たちも大切にしていきましょう。ペテロなどの弟子たちと違い、私たちはイエス・キリストを直接この目で見たことはありません。けれども、神さまは私たちもキリストに出会うことができるようにと、この聖書を与えてくださいました。私たちはこのキリストのことばを通して、キリストご自身に出会っていく。皆さんも振り返ってみてください。もし私たちが本当にイエス・キリストを信じているのであれば、そこには必ずキリストとの出会いがあったはずです。その出会いを否定することは誰にもできません。「あなたはおかしい。あなたは間違っている」、いくら周りから言われようと、あの日、あの時、イエスさまご自身が私に出会ってくださった、この経験をなかったことにすることは誰にもできません。ぜひ自信をもってください。信じている自分に自信をもつのではありません。こんな弱い自分に出会ってくださったイエス・キリストに自信をもつのです。

今日はこの後聖餐式がもたれます。聖餐式はなぜ与えられたのか。私たちがキリストとの出会いを確信するためです。私たちはすぐに自信を失ってしまいます。本当にイエスさまは信じるに値するお方なのだろうか。イエスさまが分からなくなる。しかし月に1回聖餐に与る度に、私たちはキリストに出会い直すのです。パンと杯に手で触れ、それを目で見て、鼻で匂いを感じ、舌で味わう、確かな感覚。それと同じ確かさをもって、イエスさまは今ここで私たちとともにいてくださる。あの日あの時出会ったキリストは、今も自分に出会ってくださっている。キリストは今も確かにここにおられる!それが聖餐です。

けれども、いくら自分の中に確信があっても、それを他の人に伝えるのは難しいことです。「あなたがそう確信するのはいいけど、私には関係ないから」。そう言われるのが現実かもしれません。ただ、最後にもう一度今日の箇所に目を向けていきたいと思います。21, 22節「そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した。それは、皆の者がこの出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、二人を罰する術がなかったからである。このしるしによって癒された人は、四十歳を過ぎていた」。「皆の者がこの出来事のゆえに神をあがめていた」。生まれつき足が不自由だった四十過ぎの人がイエス・キリストの名によって癒され、今確かにここにいる。それが何よりの証しになりました。私たちもそうです。キリストによって癒された私たちが健やかに喜びをもって生きること。それが最大の証しです。クリスチャンとは、キリストの名を負っているということです。その私たちが、「わたしは神のひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」と告白しながら、健やかに、喜びをもって生きていく。そんな私たちの姿を通して神さまの御名があがめられますように。ともに祈りましょう。

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