マルコ3:7-12「神の国の働きをともに担う者へ」

 昨年の11月、ローマ教皇が38年ぶりに来日するという出来事がありました。コロナのことがあってもうずいぶん前のことのように思えますが、その時の人々の熱狂ぶりをみなさんもよく覚えておられると思います。連日テレビではローマ教皇の様子が報道され、様々なグッズも売り出され、東京ドームで行われたミサには5万人もの人々が駆けつけていました。まるで世界のトップアイドルが来たかのような雰囲気で、フランシスコ教皇の知名度や人気は爆発的に上がりました。けれどもそれでクリスチャンが増えたかと言われれば、特にそういう話は聞かないなというのが正直なところです。教皇のファンは増えたかもしれませんが、そこから一歩進んで、イエスさまを自らの主として信じた人は残念ながらわずかだったのではないかと思います。

今日の箇所では、イエスさまの爆発的人気の様子が描かれています。この箇所は、イエスさまのガリラヤでの宣教の前半のまとめとも言えるようなところです。7節の冒頭でイエスさまはおそらく休みをとるために湖の方に退かれたとありますが、人々はイエスさまを解放しようとはしませんでした。ここで注目すべきは、イエスさまの宣教の広がりです。7-8節を見ると、イエスさまの名前は南のユダヤ、エルサレム、そのさらに南にあるイドマヤ、東にあるヨルダンの川向こうの地方、そして北にある異邦人の町ツロ・シドンにまで広まっていたことが分かります。ガリラヤの片田舎から始まった福音は、今やイスラエル中、そしてイスラエルを超えた地域にまで広がっていました。前の箇所で見たように、イエスさまとパリサイ人たちとの対立は深まるばかりでしたが、それにもかかわらず、一般民衆からは絶大な人気を得ていたようです。

では、イエスさまはなぜ人気だったのでしょうか。8節後半にはこうあります。「非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。」もちろんイエスさまの教えに興味があって来た人もいたことにはいたと思いますが、大多数の人々はイエスさまの教えというよりも、イエスさまが行っておられたこと、癒しの業や悪霊追い出しの業についての噂を聞いて、それを求めにイエスさまのみもとにやって来たようです。

そのように言うと、それがあまりよくないことのように聞こえるかもしれませんが、決してそういうことではありません。癒しと悪霊追い出しというのはこれまですでに何度も出て来たように、イエスさまの宣教の働きの中で重要な位置を占めていました。イエスさまは単に自分がどんな奇跡も起こせる神さまであることを証明するために癒しや悪霊追い出しを行ったわけではありません。人の病が癒され、悪霊に憑かれた人が解放されるというのは、旧約聖書から預言されていた神の国の訪れのしるしでした。そのような意味で、イエスさまの癒しの業、そして悪霊追い出しの業というのは単なる奇跡ではなく、神の国がイエスさまによってこの地上にもたらされたことの宣言、すなわち福音のあらわれだったのです。ですから、そのような神の国の宣言がガリラヤを超えて地域一帯に広がっていったというのは、福音が前進していた確かな証しでした。

けれども、私たちはここで今日の箇所の群衆の様子に目を留めたいと思います。9節の冒頭には、「イエスは、群衆が押し寄せて来ないように」とありますが、ある翻訳だとこの箇所は「群衆に押し潰されないように」となっています。「押し潰されないように」、その時の情景がより鮮明にイメージできる翻訳です。アイドルの握手会などでは、警備員がしっかりとついていて、ファンを順番に並ばせて「はい次。はい次」という風に交通整備のようなことをしているようですが、イエスさまの場合はそうはいかなかったようです。10節を見ると「病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来た」とありますが、そこはもう無法地帯でした。それもそのはず、群衆はイエスさまによる癒しと悪霊追い出しを求めて遠い場所から遥々やって来たわけですから、みんな切羽詰まっていたわけです。当時はまともな医療もありませんでしたから、この機会を逃したら一生病は治らないかもしれない。その中で、我先にとみんなが一斉にイエスさまのもとに押し寄せて来た。ただ群衆にとって、イエスさまは自分たちを癒してくれるすごい「医者」であって、それ以上でもそれ以下でもなかったのでしょう。一番大事なのは、自分が癒してもらうことです。ですから他の人を押し除けてでも、何とかして自分の望みを叶えてもらおうと、半ば暴徒化してしまっていたのです。

このような群衆の特徴として挙げられるのは、熱しやすく冷めやすいということです。今日の箇所のように、自分たちの望みを叶えてもらえる時は激しく熱狂します。11-12節でイエスさまが神の子としてのご自分の身分を隠そうとしておられるのはそういった理由からです。「神の子」というのは当時のローマ皇帝の称号でもありましたから、熱狂した群衆が「イエスは神の子だ」と言いふらし始めたら、イエスさまは国に命を狙われてしまうことになりますから、その先まともに宣教活動ができなくなってしまいます。熱狂した群衆はコントロールが効きませんから、イエスさまはこの段階ではご自身の身分を公にしようとはなされなかったのです。

けれどもさらに恐いのは、その熱狂が逆の方向に働いた時です。そこで思い起こされるのは、イエスさまが十字架にかかった日の出来事です。その中で、総督ピラトが群衆に対して、イエスさまとバラバという殺人犯のどちらを釈放してほしいかと問いかける場面があります。群衆はその1週間前、エルサレムにやって来たイエスさまを熱狂しながら歓迎していましたから、普通ならイエスさまを釈放してほしいと願うはずです。けれども彼らは祭司長たちにそそのかされた結果、掌を返すように「イエスを十字架につけろ」と叫び始めるのです。自分たちの望みを叶えてくれる時は熱狂的に支持をするけれども、そうでなくなった時、むしろイエスさまの存在が自分たちにとって不都合になった時にはその熱狂が逆の方向に働き、イエスさまを十字架にかけて殺すところにまで至ってしまう。そのような群衆の熱狂の恐ろしさを今日の箇所からも垣間見ることができます。

イエスさまはそのような群衆の恐ろしさを知っておられたことでしょう。けれどもそれでもなお、イエスさまは群衆を放って置かれることはせず、愛と憐れみをもってその必要に応え続けました。何という愛の大きさ、憐れみ深さでしょうか。そしてイエスさまは群衆の悔い改めを願い、神の国の教えを説き続けました。9節でイエスさまは弟子たちに小舟を用意しておくように命じますが、それは押し寄せてくる群衆から距離を置くためだけではありません。41節を見ると分かるように、それは群衆を少し落ち着かせて、舟の上から神の国の教えを語るためでもありました。イエスさまは群衆一人ひとりが悔い改め、信仰をもつようにと、忍耐深く群衆と向き合い続けたのです。

けれども、神の国が前進していくためには、そのままではいけませんでした。そこで注目したいのは、今日の箇所の直後の話です。説教の冒頭で、今日の箇所はイエスさまのガリラヤ宣教の前半のまとめの記事だと申し上げましたが、それと同時に、今日の箇所は次の記事への導入としての役割も果たしています。何の導入かと言いますと、313-19節を見ると分かるように、今日の箇所はあの12弟子の任命の記事の導入にもなっているのです。それはつまりどういうことか。イエスさまは自分の必要のためだけにイエスさまのもとに集まる人ではなく、自分の必要を超えてイエスさまに従う弟子を求めたということです。もちろんイエスさまは自分の必要のためだけにイエスさまのもとに集まる人を拒絶されたわけではありません。何度も申し上げているように、イエスさまはそのような群衆を豊かな愛と憐れみをもってご自身の内に迎え入れました。けれどもイエスさまは、神の国をさらに前進させるために、神の国を世界中に拡げていくために、神の国の働きを共に担い、自分の必要を超えてイエスさまに従い続ける弟子を求めたのです。

ここに、私たちの信仰のあり方も問われます。もちろん、イエスさまは私たちの必要を満たしてくださるお方です。助けてくださいとイエスさまのもとに行くのは確かな信仰のあらわれです。素晴らしいことです。そしてイエスさまはそのようにご自身のもとに駆け寄る私たちを、豊かな愛と憐れみをもって迎え入れてくださいます。それは確かなことです。けれども、もし私たちがそこに留まり続けるならば、私たちはこの群衆と同じ過ちを犯してしまう危険性があります。自分の望みが叶えられている間は喜んでイエスさまのもとに駆け寄るけれども、自分の望みがすぐに聞き入れられない時、あるいはイエスさまと一緒にいることによって何か不都合が生じてしまう事態に陥った時、掌を返すようにイエスさまのもとから走り去り、「十字架につけろ」と叫び始める。そのような群衆の1人になってしまう危険性が私たちの内にはないでしょうか。

イエスさまは、そこから一歩進み出るようにと私たちを招いておられます。自分の必要を超えてイエスさまに従い、神の国の働きを共に担うキリストの弟子をイエスさまは求めておられます。そこには時に苦しみも伴うかもしれません。イエスさまの弟子たちは多くの迫害を受けました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、十字架を負って、わたしに従って来なさい」、イエスさまはそのようにおっしゃっています。神の国の働きを担う中で、この世の悪と対峙しなければならないこと、辛く苦しい思いをしなければならないことはたくさんあります。けれども、神の国の働きにはそれだけの価値があります。なぜか、それはイエスさまがいつも共にいてくださるからです。どんな困難の中にあっても、どんな苦しみの中にあっても、イエスさまが共にいて、その困難、苦しみを共に負ってくださっている。そしてその困難、苦しみの先には、神の国の完成という栄光に輝く将来が待っている。その喜びと平安と希望があれば、どんな苦難も乗り越えることができます。そのようなキリストの弟子としての歩みに、共に踏み出していきたいと願います。「神の国の働きを共に担う者へ」、イエスさまは私たちを、あなたを今日も求めておられます。

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