詩篇121「私の助けはどこから来るのか」

 

11月に入り、2021年も残すところわずかとなりました。今日は11月の第一主日ということで、年間テーマに基づく説教をします。はじめに年間聖句を読みましょう。週報の表面をご覧ください。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」。「先立って進まれる主とともに」、今日はこの年間テーマから、先立って進まれる主は私たちに必要な助けを備えてくださるお方であるということを、詩篇121篇から学んでいきたいと思います。

 

全体の流れ

この詩篇の表題は「都上りの歌」となっています。都上りとは、エルサレムへの巡礼のことです。神殿で神さまを礼拝するために、イスラエルの各地から人々がエルサレムへの巡礼の旅に出ていく、そのような場面で歌われた詩だと考えられます。

1節「私は山に向かって目を上げる」。詩人は巡礼の旅の最中にあります。目の前には山々がある。日本のように、緑に覆われた山ではありません。何もない荒野にそびえ立つ、ゴツゴツとした山々です。その山々に向かって目を上げながら、詩人は自分自身に問いかけます。「私の助けは どこから来るのか」。詩人は助けが必要な状況にありました。それもそうです。巡礼の旅というのは決して楽しいことばかりではありません。荒野での旅ですから、大きな危険が伴います。日中は暑い太陽に照らされながら、夜は寒さに震えながら歩いていかなければいけない。野の獣や強盗に襲われるかもしれない。水や食料が尽きたらどうしようか。不安の種は尽きません。だからと言って、周りを見渡しても、自分を助けてくれそうなものは何もない。目の前に広がっているのは、何もない荒野だけ。「私の助けは どこから来るのか」。自分自身に問うしかない。切実な問いです。

しかし、詩人の内に迷いはありませんでした。一つの揺るがない確信がありました。2節「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」。これは詩人の信仰の告白です。「私の助けは主から来る」、これは遠くにおられる主が何らかの方法で助けを送ってくださるという意味ではありません。原語のヘブル語を見ると、ここでは主の臨在を表す「ともに」ということばが使われています。「私の助けはともにいてくださる主から来る」ということです。周囲は何もない荒野。自分を助けてくれそうなものは何もない。けれども、主は目には見えなくても確かに私とともにいてくださる。必要な助けをお与えくださる。しかも、主はただの神ではない。この天地を造られた全能の神さまであって、その神さまが私とともにいて助けてくださる。これほど心強いことがあるだろうか。確固たる信仰の告白です。

すると、3節から語り手が変わります。「主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない」。一緒に巡礼の旅をしている信仰の仲間かもしれません。この詩人の父親ではないかと言う人もいます。いずれにせよ、2節で確固たる信仰を告白した詩人に対して、「よくぞそう言った。その通りだ!」と言わんばかりに、主の守りの確かさが語られていきます。「主はあなたの足をよろけさせず」。たとえあなたが躓きそうになっても、転びそうになっても、主はあなたとともにいて、あなたの腕をガッチリとつかみ、支えてくださる。「あなたを守る方は、まどろむこともない」。どんなに強い人でも、寝ている間は無防備です。誰かのことはもちろん、自分のことさえ守ることはできません。またⅠ列王記で預言者エリヤがバアルの預言者たちと対決する話で、「あなたたちの神はもしかすると寝ているのかもしれないから起こしたらよいだろう」とエリヤが言う場面がありますが、天地を造られた唯一の主は決して眠ることも、まどろむこともない。どんな時でも私たちを見守っていてくださる。

そして4節では主の守りへの確信がイスラエル全体にまで広げられます。「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない」。一人ひとりに目を注ぎ、大切に守ってくださる主は、個人個人だけでなく、ご自身の民、イスラエル、教会全体の歩みをも守り導いてくださるお方。

56節ではその主の守りがさらに豊かに語られます。5節「主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰」。「右手」とは人の利き腕、大切な部分を表しています。主は私たちのことをその御翼の陰でおおってくださり、日照りからも、どんな攻撃からも守ってくださる。そして6節「昼も 日があなたを打つことはなく 夜も 月があなたを打つことはない」。昼の暑い日差しからも、夜の暗闇からも主はあなたを守ってくださる。昼も夜も、この二つを並べることによって、主の守りはあらゆるところに臨んでいることが示されています。

そして最終的に、巡礼の旅に限らず、人生すべてをおおう主の守りの約束が語られます。7節「主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる」。「すべてのわざわいからあなたを守る」、これはわざわいに遭わないということではありません。たとえわざわいに遭ったとしても、いや、生きていると必ずわざわいには遭うけれども、そのわざわいの最中にあっても主はあなたとともにいて、あなたを守ってくださるということ。詩篇23:4には「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから」とありますが、まさにその通りのことがここで約束されています。そして8節「主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる」。巡礼の旅の行きも帰りも、そして人生全体も、今よりとこしえまで主はあなたを守ってくださる。3-8節では合計6回「守る」ということばが出てきますが、そのクライマックスがまさにここです。主の守りは一時に終わるものではない。今日は守られるけど、明日は守られないということでもない。今日も明日も、今週も来週も、今よりとこしえまで、主はあなたを守ってくださる。

 

先立つ信仰告白

ここまで、121篇全体の流れを見てきました。主の守りがここまで豊かに語られている詩篇はなかなかありません。多くの人に愛される理由がよく分かります。慰めと励ましに満ちた詩篇です。けれどもこのように一篇を通して読む中で、あることに気付かされます。それは何か。この詩人は、何か主の守りを経験してからこの詩を歌っているのではないということです。たとえばこの後にある詩篇124篇。7-8節にはこうあります。「鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ 私たちは助け出された。私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある」。最後の8節は今日の121篇の2節と大変似ていますけれども、ここで詩人は主から助け出された経験をもとに、「私たちの助けは天地を造られた主の御名にある」と告白しています。あるいは他の多くの詩篇を見ると、詩の序盤で「主よ助けてください」という詩人の叫びがあり、途中で詩人は主の助けを実際に経験し、詩の最後で主をほめたたえる、そのようなパターンが多く見られます。けれども今日の121篇はどうでしょうか。ここでは1節で「私の助けはどこから来るのか」との問いが発せられた後、即座に「私の助けは主から来る」という信仰の告白がなされます。詩人は主の助けを目に見える形で経験していないにもかかわらず、主への確かな信仰を告白するのです。そしてその信仰の告白に続いて、主の確かな守りが豊かな表現を用いて語られていく。

これは、私たちに対するチャレンジです。生きていれば必ず、何かしらの助けを必要とする場面に私たちは遭遇します。人の助けを借りて解決する問題であれば、それはそれでいいでしょう。しかし時として私たちは、誰も自分を助けてくれる人がいない、そのような状況に出くわすことがあります。あるいは、いくら人の助けを借りたとしても、人の力では決して解決できない問題、私たちにはどうしようもない問題というのも山ほどあります。今この場にも、そのような問題に直面している方々がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。周りを見渡しても、そこにあるのは殺伐とした荒野の景色だけ。頼れるものが何もない。その中で私たちは問う。「私の助けはどこから来るのか」。

この問いに私たちはどう答えるのか。この詩は私たちに迫ってきます。「神の助けなんて何もないじゃないか」と失望し、この世のものからの助けをひたすら探し続けるのか。あるいは助けそのものを諦め、一人で孤独の道を歩んでいくのか。そうではなく、この詩人のように、今は目に見える助けがなくても、「それでも、私の助けは主から来るのだ」と、主への確固たる信頼を本気で告白するのか。あなたはどう答えますか。

 

主の守りの世界

「私の助けは主から来る」、この信仰の確信に立つ時、私たちは自分をおおっている主の豊かな守りに気付きます。主に対する疑いがあると、不満ばかりが湧いてきます。なぜ主は守ってくださらないのかと。しかし、自分は主に守られていると信じる時、私たちは自分がいかに主に守られているのかに目が開かれるのです。自分がよろけないように腕をガッチリと支えてくださっている主のお姿に、まどろむことなく自分を見守ってくださっている主のお姿に、死の陰の谷にあってもそばを離れることなく一緒に歩いてくださっている主のお姿に私たちは目が開かれていく。そしてその経験を重ねるごとに、自分だけではなく、主にある兄弟姉妹一人ひとりが、主の教会全体が主の守りにあること、そして今この時だけでなく、昼も夜も、行くにも帰るにも、自分の人生のすべて、たましいのすべてが主の永遠の守りの中にあることが見えてくる。子どもの時には分からなかった親の守りが、大人になるにつれて分かってくるように、自分がいかに父なる神さまの御手の中で守られているのかが少しずつ分かってくるのです。

信仰者ではない人からしたら、そんなの思い込みだと思われるかもしれません。そう思われるのも無理はありません。けれども私たちキリスト者は、信じる者にしか見えない神の世界があることを、主の守りに満ちた世界があることを知っています。神さまが常に私たちに先立ち、ともに進んでくださることを知っています。ですから、ぜひその世界に飛び込んでいただきたいのです。私の助けはどこから来るのか、その問いに対し、私の助けは天地を造られた主から来ると確信をもっていただきたい。その信仰の決断の先には、あふれるばかりの主の恵みの世界が待っています。

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