マタイ6:10「みこころが行われますように」

今日は月に1回の年間テーマに基づく説教です。はじめに年間聖句をともに読みましょう。週報の一面をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)。この聖句から、「祈りに生きる教会」という目標のもと、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」を中心にみことばに聴いています。今日は「御名が聖なるものとされますように」、「御国が来ますように」に続く第三の願い、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」です。ここまでの三つの願いはすべて一つのテーマのもとにつながっています。「神の国」というテーマです。私たちは神の国、神さまの支配がこの地上になることを祈り求める。すると神の国がもたらされたところでは必然的に御名が聖なるものとされます。御名があがめられる。そしてそこでは同じく必然的にみこころがなされていきます。神の国がもたらされる時に、自ずと他の願いも実現していく。そのような意味で、「主の祈り」は「神の国を求める祈り」であると言うこともできます。

 

「みこころ」とは?

その中で今日私たちは「みこころが行われますように」という第三の願いに焦点を当てていきます。「みこころが行われますように」。「みこころ」とは何でしょうか。教会以外ではあまり使われることのないことばかもしれません。この箇所を直訳すると、あなたの意志、あなたの願いがなりますようにということばになります。神さまのご意志、神さまの願いがその通りになりますようにということ。

そしてその後には、「天で行われるように、地でも行われますように」とあります。「天」というのは神さまがおられる領域のことです。そこにはイエスさまもおられて、御使いがいて、すでに召された信仰者たちもいるわけですが、そこでは神さまのご意志が、みこころがなされています。神さまのみこころに反するものは一切ありません。しかしそれに比べてこの地上はどうか。前回の「御国が来ますように」のところで確認したように、この地上に神の国はすでにもたらされていますが、いまだ完成しておらず、悪の力がそこに存在しています。神さまのみこころに反する勢力が存在し、みこころに反することが行われている。だから私たちは祈るわけです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。

では「みこころ」、神さまのご意志という時に、神さまは具体的に何を願っておられるのでしょうか。聖書はそのことをはっきりと教えています。ヨハネの福音書640節にはこうあります(そのままお聴きください)。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」。神さまのみこころは、私たちが永遠のいのちをもち、終わりの日によみがえること。なぜか。神さまは私たちとともに生きることを願っておられるからです。神さまは私たちが罪のゆえに滅びることを決して望んでおられません。そうではなく、私たちがイエス・キリストを信じ、永遠のいのちをもち、復活し、永遠に神さまとともに生きるようになることを神さまは心から願っておられる。神さまはご自身の子どもの幸せを願っておられる、父なる神さまだからです。ですから、「みこころが行われますように」という祈りは決して卑屈な祈りではありません。自分を徹底的に押さえつけて、神さまの前に媚びへつらう奴隷の祈りではありません。私たちの幸いを願ってくださっている父なる神さまへの信頼を言い表す祈り、それがこの「みこころが行われますように」という祈りです。

 

葛藤の祈り

しかしだからと言って、この祈りを心の底から祈るのは容易ではありません。もちろん「みこころが行われますように」と心から願うことはあるでしょう。今の世界を見ていると切実に願わざるを得ません。なぜこれほどまでに暴力が蔓延しているのか。人が殺されなければならないのか。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。私たちの切なる願いです。

けれども、問題は私たち自身のことです。私たちの外に関する事柄に関しては、みこころがなされるようにと願うことはある意味簡単です。誰しもがそう願います。クリスチャンでなくとも、「神さまどうかお願いします」と神頼みをします。けれども私たち自身に関する事柄はどうでしょうか。クリスチャンとして生きれば生きるほど、神さまが喜ばれること、神さまのみこころが少しずつ分かってきます。こうすることを神さまは望んでおられるということが分かってきます。しかし時として、そこに立ちはだかるものがあります。それが、私たち自身の心です。神さまのみこころの前に、自分の心が立ちはだかる。何かを決断する時、こうすることを神さまは願っておられる、それは分かっているけれども、どうしても諦められない自分の思いがある。そっちには行きたくない、抗ってしまう自分がいる。あるいは、この人を赦すことを、この人を愛することを神さまは願っておられる。それは分かるけれども、どうしても赦せない。愛したくない。神さまのみこころと自分自身の心の間で、私たちは揺れ動き、葛藤します。

イエス・キリストもその葛藤を経験しました。「今日のみことば」として週報に載せた聖句をご覧ください。十字架にかかる前夜、ゲッセマネの園でイエスさまはこう祈りました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」。イエスさまの葛藤がここにあります。この祈りの後半部分を見て、イエスさまはすごいなと思うかもしれませんが、前半にも注目しなければいけません。イエスさまは、「それがみこころなら十字架も楽勝さ」と言って十字架に向かわれたのではありませんでした。「できることなら、この杯(十字架の苦しみ)をわたしから過ぎ去らせてください」。できることなら逃げたかった。当たり前です。イエスさまは人間としてこの地上に来てくださったわけですから、当然十字架は苦しいし、恐ろしい。しかし、自分には父なる神さまから託された使命がある。従うべきみこころが目の前にある。だからイエスさまは葛藤しました。父なる神さまのみこころと、人としての自分の心との間でもがき苦しみました。そしてその上で、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と、絞り出すように祈りをささげました。

「みこころが行われますように」、この祈りの重さを私たちはここでおぼえたいと思います。この祈りは簡単に祈れることではありません。この祈りを祈る時に私たちに問われているのは、みこころであれば十字架さえも担えるかということです。苦しみの道に自ら足を踏み入れていけるか。自分の命をもささげることができるか。私たちの覚悟が問われています。それほどまでにこの祈りは重いのです。この重い、重い祈りをイエスさまは自らの祈りとして祈られた。そして私たちにも祈るように教えられた。「みこころが行われますように」。この祈りは私たちに対するチャレンジでもあります。

 

祈りを通して変えられる

ここまで言うと、私たちは怖気付いてしまいます。そこまで言われるならとてもじゃないけど祈れない、そう思うかもしれません。自分の弱さを知っていれば知っているほどそう思ってしまう。けれどもそこでおぼえたいのは、私たちは弱いから祈らないのではなく、弱いからこそ祈るということです。イエスさまは私たちの弱さを知っておられるからこそ、この祈りを教えてくださいました。イエスさまは人間の弱さをよくご存知でした。イエスさまはゲッセマネの園で三度同じ祈りを祈ったと聖書にはあります。一回では済まなかった。それほどまでにイエスさまの葛藤は大きかったのです。けれどもイエスさまはその葛藤を正直に父なる神さまに告白し、繰り返し祈りました。そしてその祈りの中で、葛藤を乗り越えていかれました。葛藤に打ち勝っていった。そして三度目の祈りの後、ついに十字架の道へと足を踏み出していくことになるのです。ここに、私たちの祈りの教師の姿があります。

私たちは完璧な状態で祈るのではありません。むしろ完璧なら祈りは必要ないでしょう。私たちは完璧ではないから祈るのです。自分の中にある弱さ、エゴ、罪をもって、ありのままの姿で神さまの前に出ていく。葛藤しながら、もがき苦しみながら神さまのもとに進み出るのです。そして祈りを通して神さまと語らう中で、神さまの取り扱いを受けていく。「できることならこうなってほしい。けれども、けれども、私の願いではなく、あなたのみこころがなりますように」。腹の底から絞り出すように祈る中で、そしてそれを繰り返す中で、次第に私たち自身が変えられていく。頑なな心をほぐしていただき、自分の思いを手放し、みこころに生きることができるように変えられていく。それが、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」です。

その先に待っているのは、神の国の豊かな祝福です。イエスさまが父なる神さまのみこころに従い、十字架にかかられたことによって、神の国はこの地上にもたらされました。そして今度は私たちが神さまのみこころに従う時、イエスさまによってすでにもたらされている神の国がこの地上で拡がっていきます。私たち自身も、一歩、また一歩と神の子どもとして成長していきます。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。この祈りを通して、やがて来る完成に向かって、神の国は前進していきます。この確かな希望に目を向けながら、今日も最後に「主の祈り」を私たち自身の祈りとしてともに祈りましょう。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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