マルコ11:22-25「祝福を確信する」

 

前回の説教では、いちじくの木といわゆる「宮清め」の箇所から御言葉に聴きました。豊かに生い茂る「葉」ではなく、「実」を見られるイエスさま。そして実をならせなかった旧約の「祈りの家」である神殿への裁きが行われていく。それが前回の箇所でした。

そこで、前回の箇所と今日の箇所とのつながりについても触れました。旧約の「祈りの家」である神殿への裁きを行われたイエスさま。それでは神の民の「祈りの家」はなくなってしまうのか。そうではなく、今度は「あなたがた」、弟子たちが新しい「祈りの家」となる。祈りの共同体として歩んでいくことになる。そこで、イエスさまは新しい「祈りの家」である弟子たちに向けて、祈りの極意を教えていく。それが今日の箇所です。

 

不可能を祈る

ではその祈りの極意とは何か。イエスさまは単刀直入に語り始めます。22節「イエスは弟子たちに応えられた。『神を信じなさい。』」祈りの極意は、「神を信じること」、信仰だとイエスさまは言われました。祈りと信仰。当たり前のことのように思えるかもしれません。私たちは信仰をもって祈る。神さまを信じているから祈る。

けれどもイエスさまはその当たり前のことをここで改めて問われます。23節「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と言う。「そんな祈り自分はしない」と感じるかもしれませんが、これは人の力では不可能なことを神さまに祈るということのたとえです。そしてよくよく考えると、私たちは普段からこういう祈りをしていると思うのです。自分の力ではどうにもならないこと、自分ではコントロールできないこと、でもこうなってほしいという願いがある、だから私たちは祈る。自分では不可能だからこそ祈る。ここでイエスさまは何も特別な祈りのことではなく、私たちがよくする祈りのことを言われています。

 

ことばと心

そしてここでのポイントは、「心の中で疑わずに」ということです。私たちは自分の力では不可能なことを祈ります。「神さま、〜してください。お願いします」とことばに発します。けれどもその「ことば」と私たちの「心」は果たして一致しているかどうか。イエスさまが問うているのはそこです。「立ち上がって、海に入れ」とことばでは祈るけれども、心の中では「そんなことあり得るのか、いやいや、あり得ないだろう」と疑っている。そのようなことがあるのではないか。

このイエスさまの問いかけに、私はドキッとさせられます。自分は果たしてどのような心をもって祈っているだろうか、深く問われます。ある時、私たちは祈りのことばを発しながらも、心の中では「このお方は本当に自分の祈りを聴いてくださるのか」、神さまを試していることがあるかもしれない。あるいは、祈りはするけれども、正直あまり期待はしていない。願いが実現しなかった場合のことばかりを考え、思い煩い、この場合はこう、この場合はこうと色々なところに保険をかけておく、保険だらけの祈りをしているかもしれない。あるいは祈りながら、心の中では無理だと思っている。けれどもクリスチャンである以上、一応神さまにお祈りしておこう。神さまの顔を立てておこう。パフォーマンスのように祈ることがあるかもしれない。

神さまを試す祈り、保険だらけの祈り、パフォーマンスのような祈り、他にも色々とあるかもしれません。いずれの祈りにおいても、そこに神さまとの本当の信頼関係は存在していません。信仰を伴わない祈りです。神さまは私たちの天のお父さまです。神さまにとって私たちは、愛する愛する神の子どもです。けれどもその子どもが、自分の愛を信頼してくれない。愛を疑っている。神さまはどのように感じるでしょうか。悲しまれるはずです。

 

祝福の確信

ですからイエスさまは続けて言われます。24節「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」これはかなり大胆なことばです。「祈り求めるものは何でも必ず与えられると信じなさい」ならまだ分かりますが、「すでに得たと信じなさい」とイエスさまはおっしゃる。一体なぜイエスさまはそこまで大胆なことを言われたのでしょうか。

イエスさまは、私たちに確信をもってほしいのです。何の確信か。祝福の確信です。しかも将来の祝福ではありません。今すでに祝福の中に置かれていることを確信してほしい。イエスさまはそう私たちを励ましておられます。私たちは祝福なしの状態から、祝福ゼロの状態から祝福を求め、得ていくのではありません。私たちはすでに祝福の中に置かれている。決して取り去られることのない祝福の中に生かされている。そしてその状態から更なる祝福を受けていく。豊かな祝福を味わっていく。それが祝福の確信です。

 

神の子どもとして

では私たちはどのように祝福を確信するのか。25節です。「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」祝福を確信するために必要なこと、それは父なる神さまからの赦しを確信することです。赦すことと赦されることの関係性については、9月の「主の祈り」の説教の中で考えたいと思いますが、ここで言われているのは、他の人を赦すことを通して、自分も赦されていることを確信するということです。赦すことを通して赦されていることを確信する。そして赦されているとはつまり、神の子どもとされているということです。私たちは罪赦され、神さまとの親子関係に置かれている。それこそが、私たちの祝福の確信の根拠です。

マタイの福音書77-11節にはこうあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者は開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」神さまは私たちの天のお父さまでいてくださる。私たちにいつも良いものを与えてくださる。だから私たちは祝福を確信して天のお父さまに祈り求めるのです。

もちろん、祈ればすべて自分の思い通りになるということではありません。祈りはお金を入れれば自動で商品が出てくるような自動販売機ではありません。祈っても思い通りの結果にならないことはたくさんあります。しかしたとえ思い通りにならなくても、それさえも、いや、それこそが祝福であることを、私たちにとって「良いもの」であることを確信する。それが神を信じるということです。

 

むすび

最後に、一つの詩を紹介したいと思います。「ある無名兵士の詩」という名前の詩です。アメリカの南北戦争の時に怪我をした兵士が病院の壁に書いたと言われているようで、その後多くの場所で紹介され、世界的に有名になった詩です。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜひ今日のみことばとともに味わっていただきたいと思います。

 

大きなことを成し遂げるために

強さを与えて欲しいと神に求めたのに

謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった

 

偉大なことができるようにと健康を求めたのに

より良きことをするようにと 病気を賜った

 

幸せになろうと富を求めたのに

賢明であるようにと 貧困を授かった

 

世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに

得意にならないようにと 失敗を授かった

 

人生を楽しもうとして あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと 命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意にそわぬものであるにもかかわらず

心の中に言い表せない祈りはすべて叶えられた

私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 

「私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」。この詩人は祝福を確信していました。求めたものが与えられたわけではなかったけれども、心の一番深いところにある本当の願いはすべて聞き届けられた。自分の思いを超えて、最高の「良いもの」が与えられた。ただしこれは一朝一夕で身についた信仰ではありません。戦争という経験を経て、あらゆるものを失うという経験を経て、詩人は「神を信じる」信仰に至ったのです。

「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。私たちは求めているものを大胆に祈ってよいのです。もちろん最終的にはみこころを求めていくわけですが、自分の求めを押し殺す必要はありません。大胆に祈ってよいのです。ただ大事なのは、祝福を確信することです。すべての祝福の源は父なる神さまにあることを確信すること。「神を信じなさい」、この信仰に立つとき、私たちはこの世界がすでに神さまの祝福で満ちていることに気づきます。

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」