マルコ11:12-25「実りを見る主」

少し長い箇所を一気に読んでいただきました。今日の箇所のイエスさまはいつもと雰囲気が違うように感じます。まずは冒頭で、実のなっていないいちじくの木に対して「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」と言葉を発されたイエスさま。実がなっていないくらいでなぜそこまで言うのか、驚きます。しかも13節の最後を見ると、この時期はまだいちじくのシーズンではなかったとあります。それを考えると、イエスさまの発言はあまりにも理不尽です。12節を見るとイエスさまは空腹だったとありますから、お腹が空いてイライラしていたのかな、なんて想像もしてしまいます。いずれにせよ、いちじくの木はイエスさまの言葉通り、夕方には根元から枯れてしまいました。かわいそうな木です。

そしてその間に挟まれているのが、神殿でのエピソードです。神殿に入るや否や、そこら中を荒らし回り、人々を追い出すイエスさま。これまで見たことがないほどの過激な姿です。空腹といちじくの木で溜まったイライラを一気に発散させている、ここでもそんな想像をしてしまうかもしれません。けれども実際は笑い事では済まされないことです。神殿というのは当時のイスラエルの宗教、文化、政治の中心ですから、そこを荒らすというのは国に対する反逆ともとれる行動です。実際、18節にあるように、この出来事を機にイエスさまは明確に命を狙われるようになります。イエスさまは十字架の道に自ら足を踏み入れていったのです。

 

神殿の堕落

イエスさまは一体なぜこのようなことをしたのか。今日の箇所を読み解いていくためには、この箇所の構造に目を留める必要があります。この箇所は、いちじくの木のエピソードの間に神殿でのエピソードが記されているという、いわゆるサンドイッチ構造になっています。これはマルコの福音書で何度か使われている文学手法でして、5章の会堂司ヤイロと長血の女の箇所でも使われていました。その時にもお話ししましたが、二つのエピソードがサンドイッチのように組み合わされている時、大事なのはその二つを一緒に味わうということです。もちろんサンドイッチは分解してもおいしいですけれども、作り手は一緒に食べてほしいからわざわざサンドイッチにしているわけです。ですからそれぞれのエピソードを分けて考えるのではなく、一つのテーマのもとに一緒に見ることによって、このサンドイッチの作り手であるマルコ、そして神さまが私たちに伝えようとしておられることが見えてきます。

そこで、まず見ていきたいのはサンドイッチの中身である神殿でのエピソードです。イエスさまは一体神殿の何を問題にされたのでしょうか。「強盗の巣」とありますから、商売人たちが不正な利益を上げていたような印象を受けますけれども、おそらくそうではありません。15節を見ると、「その中で売り買いしている者たちを追い出し始め」とありますから、売っている人だけでなく買っている人たちにも問題があったはずです。

ただ実際、こういった売買は神殿での礼拝に必要不可欠なものでした。まずは両替人ですが、過越の祭りの時期には外国に住んでいる大勢のユダヤ人がエルサレムの神殿にやって来ます。そして献金をするわけですが、この献金はユダヤの通貨でささげる必要がありました。ですから外国からやってきた礼拝者たちにとって、両替人は必要不可欠な存在だったわけです。15節にある「鳩を売る者たち」も同じです。鳩というのは旧約聖書で規定されている神さまへのささげものの一つですが、外国から来る人は長い道中ずっと鳩を抱えて歩くことはできません。どうしても現地で調達する必要がありました。ですからこういった商売人たちは神殿での礼拝に必要不可欠な存在だったわけです。

ただ、売買そのものはいいにしても、問題だったのはその場所です。神殿(宮)の中でとありますが、この売買は「異邦人の庭」と呼ばれる場所で行われていました。神殿の中で、異邦人、つまりユダヤ人でない人もここまでは入って来ていいよという場所です。言ってみれば異邦人のための礼拝の場所、祈りの場所です。しかし実際はどうでしょうか。あちこちで鳩がポッポと鳴いていて、お金がジャラジャラ音を立てていて、人々が慌ただしく動き回っている、そんな中で異邦人は祈ることができたでしょうか。とてもできません。本来、神殿は「異邦人の庭」も含めて「祈りの家」であるはずなのに、その機能を果たしていない。むしろ異邦人の祈りを妨害している。イエスさまはここに神殿の堕落を見たのです。

けれども問題はそれだけではありません。神殿というのは、ユダヤ人のアイデンティティそのものでした。彼らの霊的状態を表すシンボルです。ですからシンボルである神殿がそのような堕落した状態にあるということは、ユダヤの民全体が堕落しているということをも表していました。

 

民全体の堕落

そこで意味をもってくるのがいちじくの木のエピソードです。このいちじくという果物は、イスラエルを表す表現として旧約聖書からよく用いられて来ました。たとえばホセア書910節にはこうあります(そのままお聞きください)。「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた」。神さまはイスラエルを「いちじくの木の初なりの実のように見ていた」。では今日の箇所ではどうでしょうか。13節を見ると、葉はたくさん茂っていたとあります。ですから遠くから見ると、いかにも実をならせていそうな立派な木でした。しかし実際に近づいて見ると、実は全くありません。

これがまさに当時のユダヤの状況でした。彼らの神殿はそれはそれは豪華な建物でした。そしてパリサイ人たちや律法学者たちによってきちんとささげものがささげられ、律法はきちんと守られているかのように見えた。遠くから見たら葉の生い茂った立派な木でした。しかしいざ近づいて見ると、イエスさまが期待しておられた実りは全くありませんでした。「祈りの家」として機能していない、堕落した神殿の姿。ユダヤ人は地の塩・世の光として、この世界に真の神さまを証しする存在となるべく召されていたのに、その使命を全く果たせていない。むしろ強盗のように弱い者を虐げ、利権を貪っている。そして神殿に集まっては、この神殿があれば自分たちは安心だ、神さまは自分たちとともにおられるとあぐらを書いている。まさに「強盗の巣」です。

この堕落した民に対する裁きをイエスさまは告げました。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」。そしてイエスさまはこの後13章でいよいよはっきりと神殿の崩壊を、ユダヤ人に対する裁きを宣告します。バプテスマのヨハネはイエスさまのことを指して、「私の後に来られる方は…手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます」と語りましたが、そのことば通りのことが行われました。そして実際にこの40年後、いちじくの木が根本から枯れたように、神殿はローマ軍によって破壊され、ユダヤの国は滅亡することになります。

新しい「祈りの家」として

一見すると、ここまでは全く希望がない話です。けれども、ここで終わっていないのが今日の箇所です。今日の聖書箇所は25節までとしました。22-25節はその前の文脈とは一見なんの関係もないように見えます。実際、この箇所は次回単独で扱いたいと思っていますが、この箇所と、この前のいちじくの木と神殿のエピソードの間には「祈り」というテーマが共通しています。イエスさまは「祈りの家」としての機能を果たしていなかった神殿の崩壊を予告されました。けれども、だからと言って「祈りの家」がなくなってしまうわけではありません。22節以降、イエスさまは繰り返し「あなたがた」「あなたがた」と、弟子の共同体に向けて祈りの極意を教えています。これはつまり何を意味しているか。この目に見える「祈りの家」神殿は崩壊するけれども、今度はあなたたち、弟子の共同体が、教会が新しい神殿、「祈りの家」になっていくのだということです。

であれば、私たちは今日の箇所を他人事として読むことはできません。新しい神殿、「祈りの家」とされている私たち。では、その私たちは「祈りの家」としての役割を果たすことができているだろうか。私たちの内に「実り」はあるだろうか。葉が生い茂っているだけではいけません。教会という名前がついていればそれでいいわけではない。立派な会堂があればそれでいいわけではない。歴史があるからと言って、礼拝出席者が多いからと言って、組織が、礼拝プログラムが整っているからと言って、それでいいわけではない。神さまは生い茂る「葉」ではなく「実」を見られるお方です。教会がなすあらゆること、そこに信仰が伴っているかどうか。地の塩・世の光として神さまの素晴らしさを、神さまの栄光をこの世界に証しする使命を果たせているかどうか。「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」、あらゆる民を、異邦人であっても、どんな人であっても、神さまとの交わりに、祈りの交わりに迎え入れているかどうか。問われているのは「実」です。イエスさまが再び来られる時、「葉のほかには何も見つからない」とならないように、私たちは身を引き締め、イエスさまがいつ来られてもいいように備えていなければなりません。

そのために、大切なことは一つです。週報の「今週のみことば」にあげました、ヨハネの福音書155節を最後にお読みします。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」大切なことは一つ、イエスさまにとどまり続けることです。イエスさまがいないところで、自分の力で一生懸命「実」をならせようとしても、必ず失敗に終わります。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」からです。私たちがなすべきは、信仰をもってイエスさまにつながり続けることです。何度失敗を犯しても、イエスさまとのつながりを切るのではなく、イエスさまのもとに戻り続けること。そうすれば、枝が木から養分をいっぱいに受け取って実をならせるように、私たちの内にも聖霊の力によって確かな「実」がなっていきます。多くの実を結んでいきます。そのようにして私たちは、イエスさまが再び来られる時に向かって日々整えられ、成長していくのです。イエスさまは、私たちの「実り」を見るのを楽しみに待っておられます。

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