マルコ14:1-9「奉仕の価値」

 

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」。今日この場所でもまさにこのイエスさまのことばは実現しています。今日の箇所に出てくる女性の名前を私たちは知りません。名前だけでなく、社会的地位も、生い立ちも、なぜこの場所にいるのかも分かりません。完全に無名の女性です。しかし、その無名の女性の行ったことがイエスさまの目に留まり、福音書に記され、今や全世界に、東の果ての日本にさえ、彼女のしたことが伝えられている。不思議で、驚くべきことです。

 

女性の行動と人々の非難

改めて、今日の箇所を冒頭から見ていきましょう。1-2節は祭司長たちと律法学者たちの企みについて記しています。いよいよイエスさまの身に危険が迫っている。十字架がもう目の前に来ている。切迫感があります。

そんな中、イエスさまはエルサレム近くのベタニアという場所で、シモンという人の家で食事をしていました。すると、ある女性が「純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ」とあります。このナルド油というのは非常に香りの強い香油です。インドのヒマラヤの方でよくとれる植物を加工したものだそうで、実は今私の手元にあるこの小瓶の中に入っているものがそうです。昔イスラエルに行った際に、いつかこの箇所から説教をするときに使えるかなと思って買っておいたもので、今回初めて役に立っています。関心のある方には礼拝後にお貸ししたいと思いますが、やはりとても強い香りです。蓋を開けて部屋に置いておくとすぐにその香りでいっぱいになります。そしてやはりとても高価なもので、この女性がもっていた量だと三百デナリ以上、日本円に換算すると300万円以上の価値があったと書いてあります。その非常に高価なナルド油を、この女性はイエスさまの頭に注いだのです。部屋はあっという間にナルド油の香りでいっぱいになったことでしょう。

すると、その場にいた者たちの何人かが批判を始めます。「何のために、香油をこんなにも無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。正論です。その場にいたほとんどの人は「そうだそうだ!」と思ったことでしょう。一体この女性は何をしているのか?意味が分からない。そんなことをしてイエスさまが喜ぶと思っているのか?そんな無駄なことをするくらいなら、その分を貧しい人のために使った方がイエスさまも喜ぶはず!あの金持ちの青年に対してイエスさまが言われたことを知らないのか?あなたはイエスさまのことを何も分かっていない!4節と5節を見ると、「憤慨して互いに言った」、「彼女を厳しく責めた」とありますから、おそらく相当激しい口調で女性を非難し叱ったのでしょう。

 

価値を見出すイエスさま

しかし、イエスさまは誰もが予想していなかった反応を示します。6節から「すると、イエスは言われた。『彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。』

彼女は埋葬の備えをしてくれた!だから彼女を困らせてはいけない。するままにさせておきなさい。驚くべきイエスさまのことばです。イエスさまは、これからご自分が十字架にかかることを知っておられました。そしてこの後のマルコの福音書を見ていくと、イエスさまが十字架の上で死なれたのは安息日の前日の夕方だったので、香油を塗る時間はなく、遺体はすぐにお墓に入れられたとあります。だからこそ安息日が終わった次の日の朝、女性たちはイエスさまの遺体に油を塗りにお墓へ向かいました。イエスさまはそれをすべて見越しておられた。その上で、ナルド油を頭に注ぐという女性の行為に「葬りの備え」という大きな意味を、大きな価値を見出されたのです。

では果たしてこの女性は、自分がした行為の意味を自覚していたのでしょうか。間違いなくしていなかったはずです。そもそも自覚していたとすれば、それはそれで大変失礼なことです。当たり前ですが、葬りの備えはすでに亡くなっている遺体にするもので、まだ生きている人にするものではありません。もし生きている人にするなら、それは「あなたはすでに死んでいる」というメッセージになってしまいます。いくら何でも、女性はそんな過激なことをするつもりはなかったはずです。

では、女性ななぜイエスさまの頭に高価な油を注いだのか。彼女のことばは何も記録されていないので、確かなことは言えませんが、福音書の中で無言を貫くこの無名な女性の姿から見えてくるのは、イエスさまに対するまっすぐな奉仕の心です。この高価なナルド油をどうやって手に入れたのかは分かりません。いつかの時のためにと家にとってあったのかもしれません。ひょんなことから手に入ったのかもしれません。家が裕福だったのかもしれません。詳しいことは何も分かりませんが、いずれにせよ、この女性はイエスさまのために何かできないかと考えた。このお方のために今自分ができることは何か。そこで思いついたのが、自分が持っている300万円以上する高価なナルド油をイエスさまのために用いることだったのでしょう。これをとっておけば色々できるかもしれない。しかし目の前にいるイエスさまのために今自分ができることはこれだ!純粋でまっすぐな思いをもって、彼女は自分がもてる最高のものをイエスさまにささげたのでした。

 

価値のある奉仕?

この女性の姿から、神さまに対する私たちの奉仕のあり方について教えられます。初めに確認しておきますが、奉仕というのは教会で配られる奉仕表に書いてある働きのことだけではありません。もちろんそれは教会を支える大事な奉仕ですが、奉仕そのものはもっと広いものです。奉仕とは神さまに仕えるということ。それは礼拝であり、神さまの御心を行うこと、神さまを証しすること、神を愛し隣人を愛すること、それが目に見える形であろうと、目に見えない形であろうと、すべては神さまへの奉仕です。全生活を通して神さまに仕えていく、それがキリスト者の歩みです。だからこそ私たちは、自分は神さまのために何ができるだろうか、どのようにしたら神さまに喜ばれる生き方を、神さまへの奉仕をすることができるか、御言葉と祈りを通して学び、考えます。

ただそのようにしていると、どうしても他の人のことが目に入ってきます。他の人はどういう風にして神さまに仕える歩みを送っているだろうか。どうしても目に入ってくる。そして目に入ってくると、色々と思ってしまうわけです。「いや、それはどうなんだろう」、「そんなことをしていて、神さまは本当に喜ぶのだろうか」、「そんな意味のないことはやめて、その分のお金と労力をもっと神さまの役に立つことに使えばいいのに」。

これはよくあることです。聖書の中を見てもそうです。私の中で真っ先に思い浮かんだのは、旧約聖書のダビデとその妻ミカルのことです。第二サムエル記6章に書いてあることですが、神の箱をエルサレムに運び入れる時、ダビデは喜びのあまり裸に近いような格好で全力で跳ねたり踊ったりしていました。しかし妻のミカルはそれを見て、ダビデを心の中で蔑み、後で嫌味たっぷりに文句を言うというエピソードです。ミカルの感覚も理解できると思ってしまいますが、聖書はそのような彼女の姿勢を誤りとしています。まさに、ナルド油を注いだ女性を非難した人たちと同じです。

また自分自身のことを省みるとき、私自身思い当たる節がたくさんあります。例えばですけれども、神学生時代、学生たちが自主的にグループを作って賛美集会を開くということが時々ありました。とても元気でエネルギーのある学生たちが熱意をもって色々とやっていたわけですが、私はあまりそういった雰囲気が得意ではありませんでしたので、積極的に関わることはしませんでした。むしろ、あまり認めたくはないのですが、正直なところ、少し冷ややかに見ていたところがありました。「そんなことをする時間があるなら、勉強した方がいいんじゃないか。賛美集会よりも今は聖書の勉強をした方が神さまのためになるんじゃないか。楽しくワイワイやりたいだけじゃないのか」。思いたくなくても思ってしまうわけです。もしかしたら正論かもしれません。間違ってはいないかもしれない。けれども、そのような私の思いの背後には何があったのか。彼らよりも自分の方が神さまのことを知っている。自分の方が神さまの前に良い奉仕を、価値のある奉仕をすることができる。神さまに喜んでいただくことができる。そのような優越感を感じていたいだけではなかったのか。

奉仕の価値を決めるのは私たち人間でしょうか。そうではありません。私たちの奉仕の価値を決めるのは神さまです。今日の箇所の女性は、埋葬の備えのことなど考えもしていなかったはずです。ただ、目の前にいるイエスさまに、自分が今ここでもっている最高のものをささげたいというその一心から、ナルド油をイエスさまの頭に注いだ。周りからは全く理解されなかったけれども、イエスさまだけは、彼女の純粋でまっすぐな心を見て、それを喜んで受け取り、そこに大きな価値を見出してくださったのです。

私たちの奉仕も同じです。もちろん、奉仕の思いがあれば何でも好き勝手していいということではありません。神さまは何を喜んでくださるのか、御言葉と祈りの内に追い求めていくのはとても大事なことです。互いに愛と謙遜をもって知恵を出し合っていくことも必要です。けれども同時にわきまえておかなければならないのは、神さまの前に完璧な奉仕ができる人間はいないということです。「さあ神さま、この私の奉仕を受け取ってください!」、自信たっぷりに言えるほどの者ではない。多くの限界をもつ、弱い人間です。私たちの奉仕は不完全なもの。時には的外れなこともしてしまいます。はたから見たら何の意味もない、無駄なことをしているように思えるかもしれない。あるいは、先日出てきたレプタ銅貨2枚をささげたやもめのように、ちっぽけなことしかできないかもしれません。しかし、神さまはそこに価値を見出してくださいます。「彼女は、自分にできることをしたのです」、私たちの精一杯の奉仕に、神さまのために何かをしたいという思いに目を留め、「わたしのために、良いことをしてくれたのです」と喜んでくださる。私たちの拙い奉仕を、神の国の福音のために用いてくださる。それが私たちの主、イエス・キリストです。このお方に生涯を通して仕えていきたい。自分のもてる最高のものをささげていきたいと願います。

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