マルコ8:31-33「神のこと、人のこと」

 

下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。おそらくこのマルコの福音書の中で一番厳しいイエスさまのことばです。この前の29節では「あなたはキリストです」という大胆な信仰の告白に至ったペテロ。「よし、これでイエスさまに認めてもらえる」と思った矢先、なんとイエスさまから「サタン」とまで言われてしまう。ペテロにとっても相当ショッキングな出来事だったことでしょう。けれどもこの出来事は弟子たちがキリストの本当のお姿を知るために必要不可欠な出来事だったのです。

 

神さまのご計画

31節「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」。前の箇所で、イエスさまが「キリスト」であることについに目が開かれた弟子たち。そこでイエスさまは、「キリスト」とはどのような存在であるのかをここで明らかにします。32節に「イエスはこのことをはっきりと話された」とあるように、イエスさまはこれまでのように謎に満ちたたとえによってではなく、誰しもがはっきりと分かることばで話されました。弟子たちの霊の目が開かれ始めた今こそがその時だ、イエスさまはそのように思われたのでしょう。

けれどもその内容は決して喜ばしいものではありませんでした。人の子は多くの苦しみを受けなければならない。長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺されなければならない。そして三日後によみがえらなければならない。この「ならない」ということばは新約聖書で重要な意味をもっていることばです。これは「神的必然性」と呼ばれることがあります。そのようになるように神さまがあらかじめ定めておられるという意味です。これこそが神さまのご計画である。そして全知全能の神さまがご計画されている以上、それは必ず起こらなければならない。イエスさまはここで、ご自身に関する神さまのご計画を明らかにされたのでした。

 

弟子たちの驚き

すでにこの後の展開を知っている私たちにとって、この神さまのご計画は今さら驚くものでもないでしょう。イエスさまは十字架にかかり、三日後によみがえられた、そのことを私たちはすでに知っているからです。ですから私たちは簡単にこの箇所を読み飛ばしてしまうかもしれません。しかし、弟子たちにとってはどうだったでしょうか。先々週お話ししたように、当時の人々が待ち望んでいた「キリスト」というのは、イスラエルを支配しているローマ帝国を追払い、イスラエルを独立させ、あのダビデの時代のような輝かしい時代をイスラエルにもたらしてくれる、そのような存在でした。栄光に満ちた王さま、自分たちの夢を実現してくれる救世主を人々は求めていたのです。弟子たちも例外ではありません。「あなたはキリストです」という信仰告白の背後には、「あなたはイスラエルをローマの圧政から救い出してくださる王さまなんですね!」というキラキラとした思いが込められていたのです。

しかしそこでイエスさまはなんとおっしゃったか。これからローマ軍をいかに攻め滅ぼしていくかという革命の作戦ではありません。イエスさまがおっしゃったのは、キリスト、メシアはまず苦しみを受け死ななければならないということでした。これはたとえてみるならば、天下統一のために旗揚げした武将が、開口一番「私はこの後死ななければならない」と言うようなものです。弟子たちからしたら理解ができません。一体イエスさまは何をおっしゃっているのか。

するとペテロは弟子たちを代表してすぐに行動に出ます。32節後半「するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた」。「いさめ始めた」とは、33節でイエスさまがペテロを「叱った」というのと同じことばです。ペテロはイエスさまを叱り始めた。よく学校では先生が「ちょっと君、こっちに来なさい」と生徒を廊下に呼び出して叱る場面がありますが、それと似ています。ペテロはイエスさまよりも少し年上だったと思われます。一番弟子としての責任感もあったのでしょう。なんとかしてイエスさまの考えを正さなければと思った。「イエスさま、何を急に言い始めているのですか。あなたはこれからイスラエルを引っ張っていく王さまなのですよ。死ななければいけないなんて、初っ端からそんな弱気なこと言わないでくださいよ。そんなこと言ったら誰もついて行かなくなりますよ。キリストとしての自覚をちゃんともってくださいよ」。おそらくペテロはそのようにイエスさまを叱ったのではないかと思います。弟子たちにとって、途中で死ぬようなキリストは本物のキリストではありません。偽キリストです。自分はキリストであると自称して革命を起こすも、失敗して殺されていく、そのような過去の偽キリストのことを弟子たちも知っていたはずです。「あなたは違うでしょう。あなたこそが本物のキリストだと私たちは信じてついていっているのですよ。」弟子たちも必死だったのです。

 

後ろへと立ち去れ

しかし、イエスさまは振り向いて言われました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。自分を叱り始めた弟子たちを一蹴し、逆に弟子たちのことを厳しく叱られたイエスさま。イエスさまは弟子たちのうちにサタン、悪魔の働きを見ました。「下がれ」というのは直訳すると「私の後ろへと立ち去れ」ということばになります。「後ろへと立ち去れ」ということは、サタンはこの時イエスさまの前に行こうとしていたということです。それはつまりどういうことか。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とあるように、人の思い、人の願いが神さまのご計画の前に来ようとしていたということです。「『人の子は多くの苦しみを受け、殺され、よみがえらなければいけない』?そんな神さまのご計画なんて知りません。イエスさま、あなたは私たちの願いを、夢を叶えてくれる存在でなければいけないのです」。人の願い、夢によって神さまのご計画が妨害される。これはまさしくサタンの働きです。

歴史を見ても、イエスさまほど人々から多くの夢を託された存在はいなかったのではないでしょうか。「このお方なら私の夢、願いを叶えてくれる」、人々はそのような「キリスト」を求めてイエスさまに近づきます。イエスさまに期待し、自分の夢を託します。けれどもしばらくイエスさまとともに過ごす中で、実はイエスさまは自分が思っていたような存在ではないことが分かってくる。私の夢、願いを問答無用で叶えてくれる救世主ではないことが分かってくる。むしろイエスさまとともに生きるというのは、自分の夢、願いを捨て、自分の十字架を負ってイエスさまに従うことなのだというのが分かってくる。それが分かると、多くの人々は失望します。「なぜあなたは私の夢を、願いを叶えてくれないのですか」とイエスさまを叱り始めます。そしてやがて、イエスさまは自分の夢、願いに対して無力だったと、イエスさまのもとを去っていくのです。

 

神のご計画に信頼する

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」、このイエスさまのことばを私たちは真摯に受け止めたいと思います。イエスさまに自分の願いを打ち明けること自体はよいことです。イエスさまは私たちのどんな願いも思いも受け止めてくださるお方です。しかし自分の願い、思いが神さまのご計画の前に来てしまうとき、問題が起こります。イエスさまは、私たちの夢、願いを叶えるためにこの地上に来てくださったのではありません。イエスさまがこの地上に来てくださったのは、ただひとえに、神さまの愛のご計画の故なのです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」、イエスさまは弟子たちを厳しく叱りました。けれどもイエスさまはここで決して人のことなどどうでもいいと言っているわけではありません。「神のこと」の中に「人のこと」が含まれているのです。キリストは苦しみを受け、死ななければならない。人の目には失敗と映るでしょう。人の夢は潰えたかのように思えるでしょう。しかしこの神さまのご計画によって、人の理解をはるかに超える神さまのご計画によって、人は真の救いを、幸いを得ていくのです。そこには神さまの愛があるからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」(ヨハネ3:16)。このみことばがすべてを言い表しています。

「人のこと」を思う生活から、「神のこと」を思う生活へ。それがキリスト者の歩む道です。この次の箇所で見ていくように、それは厳しい十字架の道です。しかしその道を通してこそ、私たちは真の救いに至っていく。「神のこと」、神さまのご計画は、神さまの大きく豊かな愛に基づくものだからです。ですから私たちはもはや「人のこと」にとらわれる必要はありません。「神のこと」に思いを向け、信頼し、そこに自らのすべてを委ねて生きていく中で、真の救い、幸いを得ていくのです。「人のこと」を思う生活から、「神のこと」を思う生活へ、イエスさまは今日も私たちを招いておられます。

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