マルコ16:1-8「失敗続きの歩みでも」

 不思議なエンディング?

3年以上読み進めてきたマルコの福音書も、いよいよ最後の章に入りました。予定では、今日含めてあと2回でこの章を読み終える予定です。私自身、説教者としては初めて一つの書を丸々説教し終えることになりますので、感慨深い思いでいます。

ただ、このマルコの福音書の最後というのは実は大きな問題を孕んでいる箇所でもあります。パッと見てお気づきになられている方も多いと思いますが、章の後半部分を見ると、9節以降は少し間を空けて長い括弧の中に入れられています。またその手前にも5行ほど括弧の中に入れられている段落があります。詳しいことはこの箇所を扱うマルコの福音書の次回の説教でお話しできたらと思いますが、簡単に言えば、この括弧に入れられている箇所はほぼ間違いなくオリジナルのマルコの福音書には含まれていなかったと考えられています。印刷技術の発明は15世紀ですから、それより前の聖書は基本的に人の手で書き写されることによって代々受け継がれてきました。そのプロセスのどこかで、2世紀前半という説が有力なようですが、この括弧の箇所が書き加えられた可能性が非常に高いということです。ですから新改訳聖書ではこの箇所を括弧の中に入れて区別しているわけです。

ではなぜそんなことが起こったのか。その理由は8節の内容にあります。8節「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。現状判明しているマルコの福音書の最後はこの8節で終わります。どうでしょうか。「こんな終わり方でいいのか」と思われる方も多いのではないでしょうか。昔の人々もそう思ったわけです。そこで、当時すでに存在していたマタイの福音書やルカの福音書などを参考にしながら、最後の部分を書き加えていったのではないかと考えられています。

私たちからすると、聖書に書き加えるというのはとんでもない暴挙であるように感じます。けれどももしかしたらそこには理由があったのかもしれません。実際、学者の中には、オリジナルのマルコの福音書には8節以降の続きがあったはずだという意見もあります。マルコの中には「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(14:28)というイエスさまの約束がありますから、その約束の実現を描くのが自然な流れではないかということです。ただ、かなり初期の段階で、その最後の部分が何らかの理由で失われてしまった。当時は巻物ですから、巻物の端っこは非常に脆いわけです。もしかしたらそういった理由で最後の部分が失われてしまったのかもしれない。だから後の人々が失われた部分を再現しようとしたのはそこまで責められるべきことではないのではないか。そういった意見もあります。

ただ、やはりこれは推測の域を出ません。私たちが確かに言えるのは、現状私たちが手にしているマルコの福音書は8節で終わるということだけです。それ以降が失われたにせよそうでないにせよ、今この形で私たちに聖書が与えられているということは、そこに神さまの摂理があり、神さまのメッセージがあるということです。少し説明が長くなりましたが、そのことをおぼえながら今日の箇所に向かっていきたいと思います。

 

「失敗の完成」

もう一度8節「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。復活の知らせはそれほど驚くべきものでした。私たちは復活の話を何度も繰り返し聴いていますので、復活という出来事にすっかり慣れてしまっている面があるかもしれませんが、自分の身になって考えてみれば、驚くのは当然です。お墓の中を見ると遺体がなくなっている。しかもそこには天の御使いがいて、復活が起こったのだと言っている。震え上がって気が動転するのも分かります。

ただ、恐ろしさのあまりそれを誰にも言わなかった。単純に整理がついていなかったのかもしれません。あるいは御使いのことばを信じ切ることができなかったという可能性もあるでしょう。もしくはたとえ信じることができていたとしても、女性である自分たちが何を言っても信用してもらえるはずがない、遺体を盗んだ疑いがかけられるのではないか、悲しみのあまり頭がおかしくなってしまったと思われるのではないか、そういった恐れもあったのかもしれません。いずれにせよ、「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい」という御使いのことばに従うことができませんでした。前回見たように、この女性たちは男性の弟子たちと比べて、最後までイエスさまのそばにいようとした立派な「弟子」でした。けれどもその女性たちも、完璧な弟子ではなかった。そもそも完璧な弟子であれば、「わたしは十字架にかかった後三日目によみがえる」という生前のイエスさまのことばをしっかりと理解していたはずです。空の墓を見てここまで恐れることもなかったでしょう。この女性たちも完璧には程遠い、まだまだ未熟な弟子たちであった。それが今日の箇所で明らかにされます。

ある説教者は今日の箇所のことをこのように表現していました。「イエスに従うはずの弟子たちの失敗を完成させる物語」。私たちがこれまで見てきたように、マルコの福音書には弟子たちの失敗の場面が多く描かれています。イエスさまは何とかして弟子たちを教育し、訓練しようとしたけれども、弟子たちはいつも失敗し、イエスさまの期待に応えることができなかった。その究極は十字架です。十字架という最大の試練を前に、弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げ去り、ペテロはイエスさまを三度も否定するという大きな過ちを犯してしまった。けれども、弟子たちの失敗はそこでは終わりません。男性の弟子たちよりも遥かにマシと思われたあの女性たちも、やはりイエスさまの期待に応えることはできなかった。マルコの福音書は最後の最後まで弟子たちの失敗を描き続けている。「イエスに従うはずの弟子たちの失敗を完成させる物語」、皮肉たっぷりのこの表現がしっくりときてしまうわけです。

私たちはこの物語を読んでどう思うでしょうか。残念だと思うでしょうか。もちろん残念です。しかし、残念という感想に留まっていては、マルコのメッセージを十分受け取ったことにはなりません。マルコが意図したこと、それは、この福音書を読む私たち読者が、弟子たちの内に自分たちの姿を見出すことです。イエスさまの期待に応えることができない、失敗続きの歩み。それが私たちの現実なのだ。復活という驚くべき出来事を証しする証人とされたにもかかわらず、恐れのあまり、それを人々に伝えることができない。「こんな話を信じてくれるはずがない」、「自分の心の中だけに留めておこう」、「いや、そもそも人がよみがえるなんてそんなことがあり得るのだろうか」。最後の最後までイエスさまの期待に応えることができない、イエスさまのことばを、神の力を信じ切ることができない、弱く、未熟で、失敗続きの私たちの歩みがここにあります。

 

よみがえりの主と出会う

しかし、この後の女性たちの歩みを私たちは知っています。弱く未熟な姿を露わにした女性たち。けれどもそんな女性たちの目の前にイエスさまご自身が現れ、「おはよう」と声をかけてくださった。イエスさまは弱く未熟な女性たちを見放すことなく、彼女たちが復活の証人として立ち上がることができるよう、彼女たちに出会ってくださった。私たちの手元にあるマルコの福音書は確かに失敗の物語で終わります。しかしその失敗が失敗で終わらなかったからこそ、復活の知らせがその後世界中に宣べ伝えられ、私たちのもとにも届いているのです。

男性の弟子たちもそうです。御使いは言いました。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と」。大きな失敗を、過ちを犯した弟子たちにも、よみがえりのイエスさまは出会ってくださる。しかもあえて「ペテロ」の個人名を挙げているところにも、イエスさまの憐れみ深さが表れています。どんな失敗をしても、決してご自身の弟子たちを見捨てないイエスさま。どれだけ失敗続きでも、私たちに出会い続け、私たちを立ち上がらせ続けてくださるイエスさま。神の愛がここにあります。

最後に2節「そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った」。キリストの教会はこの後、従来の安息日、土曜日ではなく、週の初めの日、日曜日に集まり、よみがえりのキリストを礼拝するようになりました。なぜか。そこが教会の出発点だからです。失敗続きだった自分たち。しかしそんな自分たちによみがえりの主イエスは出会ってくださった。この喜びの事実を、福音を、弟子たちは日曜日に集まるたびに再確認し、その恵みを語り合ったのです。

私たちもそうです。月曜日から土曜日の歩みの中で、失敗続きのダメな自分にうんざりすることがあるかもしれません。イエスさまの期待に応えることができない、こんな自分は本当にクリスチャンなんだろうかと思うことがあるかもしれない。しかしこの週の初めの日、ともに集まることを通して、よみがえりの主は確かにここにおられること、私たちに出会い続けてくださっていることを再確認していくのです。そしてキリストの御霊の力に押し出されて、再び立ち上がり、新しい1週間の歩みへと踏み出していく。その繰り返しの中で私たちはキリストの弟子として成長していくのです。

この後、教会福音讃美歌154番「まどろむ世界に」を歌います。4節にはこうあります。「心もからだも おびやかさて 迷う人々に 主は現れて 神の似姿に 変えてくださる よみがえりの主は ここにおられる」。よみがえりの主は今日もここにおられる。この確信をもって、私たちは新しい1週間の歩みへ進んでいくのです。

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